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海を呼びもどす | Jul.1

片岡義男の『海を呼びもどす』を図書館で借りてきて、20年ぶりに読んだ。

1989年、光文社から出版されたこの作品は、その10年後に加筆修正を施され、同文書院から出版された恋愛小説だ。
光文社と同文書院のものでは表紙が違う。
同文書院の、タイトルで顔が覆われた砂浜に立つ女性の表紙がことのほか気に入っている。
同文書院のデザイン室が担当した仕事のようだが、発売から20年経っても、「好きな表紙デザイン」のトップ3の座から下がる気配はない。

小説では、大学生の初々しい恋愛が描かれる。
片岡義男らしく、特別にドラマチックな展開にもならず、ドロドロとした人間関係にも陥らないまま、どこまでもドライに、淡々と進む。
他の作家には見られないほど映像的であるのは、この作品でも同じだ。

ご本人は写真に関しても造詣が深くて、カメラにも詳しい。
当然、小説家としての目線の中に写真家としての目線が入り混じっている。そのことは描写を読んでいると良くわかる。
ああ、この人はファインダーを通して見た世界を文章で表しているのだな、と。

「海を呼びもどす」は一人称単視点で書かれている。
常に目線は「僕」で、その他の登場人物の心理描写は出てこない。
それらしきものは台詞で語られ、あるいは「僕」の受け取った感覚や推測で描かれる。
これまで片岡作品はいくつかが原作として映画化されている。
そのうちの4作ほどを僕は見ている。どれもさして面白いとは思えないものだった。

おそらくそれは片岡さんの小説の書き方が、どこまでも情景描写が中心であることと、映像と小説では視座の動き方が大きく違うからなのではないかと思う。

映画を見ていても「なるほど片岡作品を映像化するとこうなってしまうのか」と、映画館の柔らかすぎる椅子に沈み込んだまま、チェックするような気分になることが多かった。
それは「目にすればひれ伏したくなるような、この世のものとは思えないほどの美しさを誇る女性だった」と書けば、それ以上の具体性を必要としない小説と、スクリーンに投影される映像とはいえ、脚本に書かれた設定通りの(あるいはそれに近い)生身の俳優をカメラの前に立たせなければならない映画の違いだ。
僕が頭の中で勝手に想像したものと、映画が一致することはなく、僕は毎度「なるほどね」と思うしかなかった。

視座の違いは、もっと単純だ。
三人称で書かれた小説でも、視点は常に一視点だ。
パラグラフや章立てが変わらない限り、そのパートの視点は一人の登場人物に限られる。
映像は違う。主人公は決まっていても、同時に多視点でストーリーは進んでいく。食卓を5人で囲んでいれば、カメラワークによって5人の視点がコロコロと動くことも可能だ。そこに「神の視点」が混ざっても、見ている側が混乱することはない(もちろんあまりに頻繁に変わらないよう、編集はされるのだろうが)。
この違いがまた「なるほどね」と思わせる要因になっていたように感じる。

1980年代、片岡義男の小説は「ドライ」「ベタベタしない」と、当時の青年、少年たちの間では人気があった。
ずっと一線で作品を出し続けておられるが、昭和の頃と比べると、平成における片岡作品は、ポストバブルの寒々しく余裕のない世情とは相性の悪いものだったように思う。
時代は令和に移り、コロナウイルスの影響で、人との濃い結びつきに制約がついて回るようになった今は、片岡義男的な徹底したアウトスタンディングな描写の小説は、また時代に並走し始めたような感触がある。
若い読者に新刊の「珈琲が呼ぶ」の評判が高いというのも、その表れなのではないか。

僕にとっては相も変わらず文体のお手本であったり、映像的な状況描写を学ぶテキストであったりもするのだけれど。
いずれにしても同文書院のこの表紙は、今も魅きつけられ続けているのだから、これはきっと一生ものだ。

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