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『ロング・グッドバイ』再読〜文体のこと、未完の続きのこと

特に必要火急な要件もない平和な日曜日、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を再読した。
僕の中では『長いお別れ』が正しいタイトルで —— つまり清水俊二訳が正規版ということだ —— 村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』はカバー・バージョンみたいな受け止めがいつまでたっても消えない。

もちろん翻訳を介さない英語版がオリジナルなのは当然なのだが、10代の頃に読んだ時の「ハードボイルド」な雰囲気は、ファーストコンタクトの瞬間に身体に深く染み込んでしまったらしい。当時は清水訳しか世の中に存在しなかったのだから、仕方がない。

以前も書いたけれど、僕は「プレイバック」がマーロウ・シリーズでは一番好きだ。次点は「長いお別れ」で、3番目が「さらば愛しき人よ」になる。
この順位付けはマーロウファンではきっと少数派だろう。
でも『大いなる眠り』の作中のマーロウは33歳。『長いお別れ』では42歳になっている。
「タフなだけじゃ生きていけないんだよ」という例のセリフは、やはりいろいろあって中年に差し掛かってきたマーロウでなければ出てこない。その深みというか、増した諦観に惹かれるわけだ。
チャンドラーによって創作された人物であるにも関わらず、作品が続く中で人間性が変化していく様は見事という他ない。

文体というのがどういったものを指すのか、実はいまでもよく理解してないのだけれど、チャンドラーの —— 翻訳の清水俊二であり、村上春樹が「チャンドラーが日本語で書いたとしたら」という仮説によって書かれた  —— 文章のリズムや言葉の選び方には強く影響されている。
もちろんロス・マクドナルドやダシール・ハメット、ローレンス・ブロック、ミッキー・スピレイン等々、多くの作家たちから影響を受けているが、それもこれもすべては10代の頃に小説に首まで浸かっていた結果だ。
何かにつけ「溺れる」というのはよくない方向の習癖として使われるけれど、僕にとっては非常に大切な通過儀礼だった。

次はチャンドラーの死で未完に終わり、続きをロバート・B・パーカーが書いた『プードルスプリングス物語』を読もうと思っている。
スペンサーのシリーズも一応はすべて読んでいるのだが、どうもロバート・B・パーカーは苦手で、チャンドラーの続きを彼が書いたと知った時は「なんでよりによって…」と思った。
『プレイバック』の翻訳は、例のセリフを別とすれば、僕は村上春樹の新訳が結構好きで、それだけに新たな翻訳だけではなく、パーカー版とは別の、ムラカミ版の『プードルスプリングス物語』を書いてくれないものかなと、密かに願っている。
翻訳でも創作でもない、金継ぎのような作業を、村上春樹ならどう仕上げるだろう。想像するだけで楽しい。

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