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宮本武蔵とウィトゲンシュタイン・『五輪の書』と『論理哲学論考』

宮本武蔵の『五輪書』を読んだんですね。で、これがね、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』とね、通じるところがあると思ったんです。

この『五輪書』っていうのは一般に兵法の書ですね、剣術の書と言われていますけども、実際に読むとね、けっこう哲学書なんですよ。

(今回も上記の動画を元に記事を書きましたが、YouTubeで言い忘れたことを追加した部分のみ有料100円にさせていただきましたので、サポートしていただけると大変にありがたいです。)

だから宮本武蔵っていうのは実は日本を代表する哲学者なんじゃないのかなと、そして『五輪書』こそが日本を代表する哲学書じゃないのかなと思ったんですね。

とにかく宮本武蔵っていうのは、生涯負けたことがない人で、実際『五輪書』の序文に、自分は生涯に六十回あまり勝負して負けたことがないと書いてあります。

一方でウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』というのは「成立している事柄」ということを問題するんですね。

物事について、それが成立しているのか、成立していないのか、といういうことを問題にするんですよ。

でそうすると、宮本武蔵が負けたことがないということは、「勝つという事柄」を成立させてきたわけですよね。

だからこの『五輪書』っていうのは、いかに敵を斬り殺して勝つか、という方法を説いた書なんですけども、つまり宮本武蔵も「成立する事柄」と「成立しない事柄」の違いについて、非常にこだわってきたわけですよね。

一方で宮本武蔵が『五輪書』で批判しているのは、自分と同時代の兵法者と名乗る人の多くが「お稽古事」で日銭を稼いでいるに過ぎず、ぜんぜん実戦向きではないということなんですね。

つまりそれは「成立しない事柄」に過ぎないと批判している点で、『論理哲学論考』と非常に通じるものがあるんですよね。

武蔵が『五輪書』を書いたのは六十歳になってからの最晩年で、自分は五十歳でもう兵法のすべてを極め尽くしたと述べているんですけども、これを書くにあたって、兵法の道は全ての道に通じるんだと、そういう思いがあったんですね。

だから単に剣術のことについてだけ書いたわけではなくて、自分が極めた剣術の道の、その理論、その精神というものは全てに通じているんだと。

舞を舞うにしても、絵を描くにしても、政治をやるにしても、農業をやるにしても、全部に通じているんだという気持ちがあったんですね。

ということでも非常に哲学的なんですよ。

だから宮本武蔵は、剣の道を究めることによって、哲学に到達したとも言えるんですね。

かねてより私が述べているように、哲学というのはすべての学問の幹なんですよね。

だから宮本武蔵の剣も、極め尽くしたその先で学問になってしまったと。

剣の道を極め尽くすと、それは学問にならざるを得ない、あるいは自然と哲学になっていくと。

だから『五輪書』でも、道を極めるということと、道の幅を広げるということが、述べられてるんですよね。

道を極めようとすると、道の幅を広げることになって、そうするとさまざまな他分野に接するということになるんですね。

だから宮本武蔵の武芸の道が、結局は哲学の道になっていくと。

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そして、その場合の哲学というのは、このウィトゲンシュタイン的な、「成立する事柄」と「成立しない事柄」を問題にする哲学ですよね。

だから哲学というのは、形而上学的な空論ではなくて、形而下と形而上が区別がなく融合したものであると。

これはウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムですね、実利主義ですね、そういうものに通じるものがあるじゃないのかなと。

だから結局、近代以降の科学を背景とした哲学というのは、実際に効果のあることというかね、ウィトゲンシュタイン的な「成立している事柄」というのを問題にするわけですよ。

そして机上の空論というものを批判的にとらえるわけですよ。

それが『論理哲学論考』だしプラグマティズムだし、フッサール現象学というのもそうですよね。

だからフッサールは哲学的論理の「現実への的中性」ということを問題にするわけですよね。

フッサールが言うには、自然的態度で生きている人が、自然的態度によって考えることが、実は現実に的中していないことが多いわけですよ。

そうすると、「現実に的中する」とはどういうことなのか?っていうのを考えているわけですけども、その問題はフッサールにも、ウィトゲンシュタインにも、そして宮本武蔵にもね、通じるものがあるんですよ。

だからこれは素晴らしいなと思って。

この『五輪書』もね、非常に短い書物なんですよね。

非常に短い言葉で書いてあって、しかも細かく書き表すことは難しいから、各自よく考えなさいと、そのように繰り返し述べられているんですね。

それと「一を知って十を知れ」ということもたびたび述べられているんですが、剣術って実践ですからね。

だから字で全部書き表すことができないし、かといって言葉が何もなくてはね、とっかかりがなくて何も進められないわけです。

とにかく、くどくど説明しないけども、最小限の言葉で全てを理解して、あとは各自鍛錬しなさいとね。

だからそれは哲学にも言えるわけですよね。

『論理哲学論考』だって、非常に難しいと言われるのは、いちいち説明していないわけですよね。

だからそれはもう各自考えて、各自の状況に合わせて、自分なりの答えを出していくしかないわけですよね。

だから、これこそ哲学だって、哲学のあるべき姿の一つだと思ったし、これが日本人によって書かれたということをね、日本人は誇りに思って良いと思ったんですよ。

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まあそうは言ってもウィトゲンシュタインは哲学者なんですね。 

そして宮本武蔵は兵法者なんですよ、人殺しなんですよ。

つまり宮本武蔵もこの『五輪書』で何回も語っていますけれども、結局は敵をいかに斬るか、つまりは人間をいかに斬るか、ということについて書かれているわけですね。

その意味での「実利」であり、その意味での「成立する事柄」、その意味での「現実にいかに一致するか」ということなんで、あくまで武蔵は人殺しなわけですよ。

結局、宮本武蔵というのは、兵法者というのは、敵を斬り殺すことが目的であると、それに立脚してるんですね。

で逆に言うと、それ以前のことについては書かれていないというか、それは疑い得ない前提として捉えられているわけですよ。

だから一つ言うと、宮本武蔵が『五輪書』を書いた時代というのは、戦国時代が終わって、徳川幕府が統治する平和な時代が訪れて、宮本武蔵の人を斬り殺す技というのは、あんまり必要とされたくなった時代であるわけですよ。

それともう一つは、本質的にね、今の時代で言うと「人を殺してはいけない」という常識があるわけですね。

それに対して宮本武蔵自身が、敵を斬り殺しながら生きていくということは、人間の本分として正しいがどうか?というところでは悩まないんですよね。

で、それはどういうことなのか?と考えたときに、一つは宮本武蔵の考えが浅いんじゃないか?という言い方もできるんですけども、しかしぼくはそれ自体が浅い考えではないかと思うんですよ。

結局人ってね、どこか立脚点に立たなければならないんですよ。

だからウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』ではその最後に「人は語りえぬことについては沈黙しなければならない。」書かれてるんですね。

この「語りえいうことについては沈黙しなければならない」というのは、この『論理哲学論考』の序論にも書いてあるんですね。

だから序論と、一番最後に「語りえぬことについては沈黙しなければならない」と書いてあるんですけども、その意味で言うと、宮本武蔵が剣によって人を斬り殺すと、そのことについての前提を疑わない、それが疑い得ない前提としてある、というのは、宮本武蔵にとっての「語り得ないこと」なんじゃないのかなと。

だから武蔵はそのことについては「沈黙しなければならない」を実践してるし、同じ事は人間みんなに言えるんじゃないのかと思うんですよね。

例えばウィトゲンシュタインは哲学者ですけども、哲学者っていうのは、まあ直接には人の役に立たないような職業で、大してお金が儲かるわけでもないんですよね。

名誉についても、今でこそウィトゲンシュタインは高名な哲学者として尊敬されてますけども、生きている間はほとんど無名で、講義を聴きに来る人もごく少数だったんですね。

しかしウィトゲンシュタインにとって、哲学者が立派な職業と言えるのか?みたいなそういう前提というのは疑わないというかね、とにかく有無を言わさずウィトゲンシュタインは、哲学者にならざるを得なかったんですよね。

ということでぼくにしても、子供の頃勉強ができなくて、クラスで一番絵が上手いぐらいの才能が一応あったので美大に行って、本当はデザイン科だったんだけど、デザイナーにはなれなくて、結局アーティストにならなきゃいけないというところでアーティストになったんですけども、結局その前提は疑い得ないというかね、人間はそれぞれその疑い得ない前提に立っているんですよね。

一方のぼくは、今述べている通りに、哲学的才能がなぜか途中から開花してきたんですね。

ぼくは子供の頃は勉強が嫌いだったし、哲学に取り立てて興味は持たなかったんですけども、30過ぎてからですかね、だんだんに哲学に興味が出て来てしまって、今ではアートと哲学がセットで自分の立脚点になったわけです。

だからと言ってね、自分は例えば30過ぎて急にマラソンに目覚めたとかね、水泳に目覚めたとか、テニスに目覚めたとかね、何かスポーツの道を極めようとかね、そういうふうにはならないわけですよ。

お笑いに目覚めて漫才師になるとか、お笑いのyoutubeをやるとか、そういうことにはならないわけですよ。

だから結局人には向き不向きというものがあって、有り体に言うと才能とか特性とかそういうものですけども。

特性というと、私には発達障害という特性があるわけですね。

注意欠陥多動性障害というものがあって、そういう諸々の、自分に備わっている特性、そして自分が置かれた状況ですね、時代状況であるとか、人間関係であるとか、生まれた場所ですよね、そういうところっていうのは、もう運命づけられているわけですよね。

で、そうやってさまざまな前提があって、その前提というのはヴィトゲンシュタインに言わせると、それが「語り得ないこと」なんですよね。

で、その意味で言うと、宮本武蔵にも固有の「語り得ないこと」があって、宮本武蔵が生まれた時代背景、時代状況というものがあって、だから武蔵が今、ぼくらと同じ時代に生まれたとしても、剣の道を極めるということは恐らくありえないわけです。

だから同じ才能の宮本武蔵が生まれてたとして、別の道で成功していたのかもしれないですけども、宮本武蔵ぐらいの人だったら肉筆の絵画というのが何点か残ってますけども、だからもしかしたら、アーティストになっていたかもしれないですね。

宮本武蔵『枯木鳴鵙図』

宮本武蔵の絵がなぜ素晴らしいのかというと、それは結局剣の道を極めたからなんですね。

剣の道を極めると、絵を描いてもすごくなるわけですよね。

だからやっぱり、一つの道が全てに通じている、というところ、武蔵の五輪書が哲学的だというのは、そういうところなんですよね。

だから、この五輪書でもただ単に、技術的に剣の技をいろいろ磨くだけでは本当に強くはなれないと。

人を斬り殺すぐらいの、殺し続けるくらいの、すごい剣術士というのは、とにかく人格からして変えていかなきゃならないので、そうすると優れた人格を養わねばならないと、そうすると絵を描いても、優れた絵になるわけですよね。

武蔵の絵を私は画像でしか見たことないですけれども、どこがどう良いのかを指摘すること自体が野暮だと思えるくらいに、とにかく圧倒されて感銘を受けてしまうんですね。

だから武蔵の五輪書というのは哲学書であって、それはウィトゲンシュタインの論理哲学論考に通じるところがあって、その意味というのは、単に空論じゃなくて、実利を考える点にあり、そういうところで現代に通ずるものがあると。

そして武蔵は兵法者であって、敵を斬り殺して勝つことを本分とする、そういう人それぞれの立脚点というのは、実はウィトゲンシュタインが論理哲学論考の冒頭と最後で示した「語り得ぬこと」ではないかと。

だから人はそれぞれ固有の語り得ぬ立脚点に立っていて、そこから前をさかのぼることができないけれども、結局は人それぞれの立脚点というところから、考えるしかないなと。

でそれは私もそうだし、皆さんもそのはずなんじゃないのかなと、いうお話をさせていただきました。

最後に動画で言い忘れたことを付け加えると、

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