ジョン・J・ミアシャイマー 「なぜ我々はすぐに冷戦を懐かしむようになるのか」

ジョン・J・ミアシャイマー 「なぜ我々はすぐに冷戦を懐かしむようになるのか」

平和

それは素晴らしいことだ。私も平和が好きであり、世界の将来の姿について楽観的 な意⾒があふれている今、故意に暗い気持ちになりたいとは思わない。しかし、この⼩論で は、冷戦が過ぎ去ったことを私たちは間もなく後悔することになるだろうというのが私の 結論である。

確かに、冷戦の副産物である朝鮮戦争やベトナム戦争を懐かしむ⼈はいないだろう。U-2 事 件、キューバ・ミサイル危機、ベルリンの壁建設などを再現したいとは誰も思わないだろう。 また、粛清や忠誠の誓い、外国⼈排斥や反対意⾒の抑圧など、国内の冷戦を再現しようとは 誰も思わないだろう。ある⽇、⽬が覚めたとき、ジョン・フォスター・ダレスの残した⾔葉 の中に新しい知恵を発⾒することはないだろう。

しかし、我々はある⽇⽬覚めると、冷戦によって国際関係のアナーキーに与えられた秩序が 失われたことを嘆くことになるかもしれない。冷戦以前の今世紀の 45 年間にヨーロッパが 知っていたのは、野蛮なアナーキーであり、野蛮なアナーキーは、ホッブスの「万⼈の万⼈ に対する闘争」であり、武⼒紛争の主因となるものだからである。ヨーロッパ国家間の武⼒ 紛争はもはや論外であり、2 つの世界⼤戦がヨーロッパからすべての戦争を消し去ったと考 える⼈々は、未来に対して不当な楽観主義を投影している。このような楽観論を暗黙のうち に⽀える平和論は、著しく浅薄な構成である。論理的分析にも歴史的分析にも耐えられない。 その予⾔の正確さに賭けたくはないだろう。

社会科学者が提唱してきた戦争と平和の理論が、新聞の⾒出しに連⽇掲載される世界史的 な事件によって検証されるとは夢にも思っていなかった。この社会科学者は、⾃分の理論的 なカードをテーブルの上に置いて、ヨーロッパの未来について思い切って予測しているの だ。その過程では、戦争と平和に関する代替理論に、できる限りの知的圧⼒をかけたいと考 えている。私の主張は、冷戦が歴史から消えつつある今、ヨーロッパで⼤きな危機、さらに は戦争が起こる可能性は劇的に⾼まっているということだ。ヨーロッパにおける次の 45 年 間は、冷戦前の 45 年間ほど暴⼒的でないだろうが、過去の 45 年間よりはかなり暴⼒的に なる可能性が⾼い。この時代は、いつの⽇か、冷戦ではなく、ジョン・ルイス・ガディスの ⾔葉を借りれば「⻑い平和」として振り返られることになるかもしれない。

この悲観的な結論は、国家間の軍事⼒の分布と性質が戦争と平和の根本原因であるという ⼀般的な議論に基づいている。具体的には、1945 年以降のヨーロッパの平和は、当初は不 安定であったが、時間の経過とともにますます強固になっている。この 3 つの要因は、⼤陸 における軍事⼒の⼆極的分布、超⼤国である⽶国とソ連の間のおおむね平等な軍事⼒、そし て、これらの超⼤国のそれぞれが⼤量の核兵器を保有しているという慣習的に嘆かれてい る事実から⽣まれてきたものである。

我々は、未だに新しいヨーロッパの全貌を知ることはできない。しかし、いくつかのことは 分かっている。たとえば、新しいヨーロッパは、1648 年のウェストファリア条約によるヨ ーロッパ国家体制の創設から1945年まで特徴的だった多極化したパワー分布への回帰を伴 うことがわかっている。この多極化したヨーロッパの国家システムが、最初から最後まで戦 争に悩まされていたことは知っている。1900 年から 1945 年までの間に、約 5000 万⼈のヨ ーロッパ⼈が戦争で命を落としたが、その原因の⼤部分はこの国家システムの不安定さに あったということを、我々は知っている。1956 年 10 ⽉と 11 ⽉の露⼟戦争と呼ばれるもの で、ハンガリー⼈とロシア⼈のおよそ 1 万⼈、1974 年 7 ⽉と 8 ⽉のキプロス戦争でギリシャ⼈とトルコ⼈のおよそ1500 から 5000 ⼈が犠牲になった。

ポイントは明確である。ヨーロッパは、過去に侵略への強⼒な誘因を⽣み出した国家システ ムに戻りつつあるのである。もし諸君が(私が所属する国際関係論のリアリスト学派が信じ るように)、国際平和の⾒通しは国家の国内政治的性格に⼤きく影響されない、つまり国家を戦争に駆り⽴てるのは国家システムの性格であって、それを構成する個々のユニットの 性格ではないと考えるなら、ヨーロッパの将来について今広く起こっている⾼揚感に共感 するのは難しいだろう。昨年は「⾃由の年」として、フランス⾰命が始まった 1789 年と何 度も⽐較されたが、まさにその通りだった。しかし、1789 年の希望に満ちた出来事が、戦争と征服の時代の始まりを告げるものであったことは、⼀般的な⾼揚感の中で忘れ去られている。

「ハード」な平和理論

1945 年以前のヨーロッパにおける暴⼒の時代は何によってもたらされたのか、そしてなぜ 戦後、冷戦の時代はこれほどまでに平和だったのか。1945 年以前の2つの世界⼤戦には、 無数の特殊で再現不可能な原因があった。しかし、過去の国家の⾏動に関する⼀般論を確⽴ し、将来の国家の⾏動を明らかにしようとする国際関係学の学⽣にとって、2つの基本的な原因が際⽴っている。それは、ヨーロッパにおけるパワーの多極化と、⼤国が覇権や優位を 争う中でしばしば⽣じたパワーの不均衡である。

国際関係におけるパワーの配置は初歩的なものであり、その重要性は⾒過ごされがちであ る。「⼆極」「多極」は、難しいが、必要な造語である。冷戦は、⼆つの超⼤国が、明らかに 劣勢な国同⼠の敵対的な同盟を⽀える役割を果たしたものであり、我々の⼆極モデルであ る。1914 年のヨーロッパは、フランス、ドイツ、英国、オーストリア・ハンガリー、ロシ アが⼤国として位置づけられ、多極のモデルとなっている。

1914 年の事例が、多極システムがより危険なパワーの形態であることの⼗分な証拠となる のであれば、おそらく私はこの議論を終わらせるべきだろう。しかし、理論的な優美さとは 裏腹に、この命題を決定的に⽀持する実証的な研究は存在しない。ヨーロッパの国家システ ムは、その始まりから 1945 年まで多極であったため、この歴史には、2 つのシステムの効 果の違いを明らかにするような⽐較は存在しないのである。確かに、それ以前の歴史には、 アテネとスパルタ、ローマとカルタゴなど、戦争的なシステムを含む⼆極システムの例が散 ⾒される。しかし、この歴史は不完全なものであり、決定的なものではない。歴史の包括的 な調査を⽋いたままでは、我々は、今、こちら側、あるいはあちら側の例を提⽰する以上の ことはできないのである。その結果、ここでの事例は主として推論に基づいている。

演繹的には、⼆極システムはより平和的である。さらに、これらの⼤国は、⼀般に、システ ム内の⼩国に忠誠を求め、硬直した同盟構造を⽣み出す可能性がある。その結果、⼩国は互 いに安全であり、敵対する⼤国の攻撃からも守られている。その結果、(使い古された社会 科学⽤語でチンケな指摘をすれば)⼆極システムには、戦争が勃発する可能性のある対⽴軸 が 1 つしかないのである。多極システムはさらに流動的で、そのような対⽴軸が多数存在 する。したがって、他の条件が同じであれば、多極システムでは、⼆極システムよりも戦争 の可能性が統計的に⾼くなる。確かに、多極化した世界では、⼩国や⼤国が⼀国だけの戦争 は、⼆⼤国間の紛争ほど壊滅的なものにはならないだろう。しかし、⼩さな戦争は常に⼤き な戦争に発展する可能性を持っている。

また、多極の国家システムでは、パワーの不均衡が当たり前であり、パワーの⾮対称性が⽣ じると、強者の抑⽌が困難になるため、抑⽌⼒の維持が困難である。1939 年にドイツとソ 連がポーランドを攻撃したように、2 つの⼤国が⼿を組んで第三国を攻撃することもある。 さらに、⼤国が⼀対⼀の対決で弱い国家をいじめることもあり、優れたパワーによって⼩国 を威圧し、敗戦させることもある。1930 年代後半にドイツがチェコスロバキアに⾏った⾏ 為は、この種の⾏動の良い例である。⼆極システムでは、2 つの⼤国が中⼼的な役割を果た すだけで、「集団攻撃」や「いじめ」を引き起こすようなパワーの⾮対称性が⽣じないため、 このような⾏動はほとんど⾒られない。

多極化のもとで抑⽌⼒が問題となるもう⼀つの理由がある。このようなパワーの構造では、 対⽴する国家の決意や、対⽴する連合の規模や強さを計算することは困難であり、連合がパ ートナーを獲得したり失ったりする傾向があるため、国際秩序の形は流動的でありがちだ からである。このため、侵略国は、はったりで相⼿を威圧したり、戦場で完全な勝利を収め ることができると誤った結論を出してしまうことがある。例えば、ドイツは、1914 年以前 に、もし⼤陸の覇権を⽬指せば英国が反対することを確信していなかったし、⽶国が最終的 にドイツを封じ込めるために動くことを完全に予⾒していなかった。1939 年、ドイツは、 フランスと英国がポーランドを征服する際に傍観することを望み、また、最終的に⽶国が参 戦することを予⾒しなかった。その結果、ドイツは⾃国の成功の⾒込みを誇張し、それがド イツの冒険主義を助⻑して抑⽌⼒を低下させたのである。

しかし、平和の⾒通しは、単にシステム内の⼤国の数の関数であるわけではない。これらの ⼤国の相対的な軍事⼒にも影響される。⼆極システムも多極システムも、パワーが均等に配 分されていれば、より平和になる可能性が⾼い。パワーの不均等は、戦場での侵略者の勝利 の可能性を⾼めるため、戦争を誘発する。過去 5 世紀にわたってヨーロッパを苦しめた⼀ 般的な戦争のほとんどは、ある特別に強⼒な国家が、システム内の他の主要な国に対抗する ものであった。このパターンは、シャルル 5 世、フィリップ 2 世、ルイ 14 世、⾰命期およ びナポレオン期のフランス、ヴィルヘルミン・ドイツ、そしてナチス・ドイツによる覇権の 試みから発展した戦争に特徴的であった。したがって、システム内の 2 つの主要国家間の 軍事⼒の差は、安定性の重要な決定要因である。格差が⼩さいと平和になり、格差が⼤きい と戦争になる。

核兵器は、ほとんどすべての⼈にとって悪者扱いされているようだが、実は平和のための強 ⼒な⼒である。抑⽌⼒は、戦争をすることのコストとリスクが明確に際⽴っているときに、 最も強く作⽤する。戦争の⾒通しが悪ければ悪いほど、戦争の可能性は低くなる。抑⽌⼒は また、征服がより困難な場合に、より強固に作⽤する。潜在的な侵略国家は、拡張の試みが 無益であることがわかると、躊躇するようになる。

核兵器は、どちらの点でも平和に有利である。核兵器は⼤量破壊兵器であり、少しでも使 ⽤されれば、恐ろしいほどの破壊⼒を発揮する。さらに、核兵器は侵略よりも⾃衛のために 役⽴つ。双⽅の核兵器が攻撃から守られ、相互確証破壊の取り決めができれば、どちらの側 も核兵器を使⽤して軍事的に有利になることはできない。その場合、国際紛争は純粋な意志 の検証の場となる。想像を絶するパワーを持つこの兵器を誰が使うのだろうか。防御者は通 常、侵略者が新たな征服に価値を⾒出すよりも、⾃分たちの⾃由により価値を⾒出すからで ある。

核兵器は国家間の⼒関係を対等なものにすることで、平和をより強固なものにする。核抑⽌ ⼒を持つ国家は、たとえ核兵器の規模に差があっても、お互いに確実な破壊能⼒があれば対 抗できる。また、相互確証破壊は、国家のパワーに疑問を持たせないことで、誤算という厄 介な問題を軽減する。

20 世紀の平和の原因は、ナショナリズムを抜きに語ることはできないだろう。「ナショナ リズム」が「国を愛する⼼」の代名詞であることに、私は何の異論もない。しかし、ハイパ ーナショナリズムとは、他の国家や⺠族が劣った存在であると同時に脅威であると考える ことであり、世界政治における主導的勢⼒ではまだないものの、おそらく平和に対する唯⼀ 最⼤の国内における脅威であると思われる。ハイパーナショナリズムは、過去にヨーロッパ 諸国の間で⽣まれた。なぜなら、そのほとんどが国⺠国家(単⼀⺠族を中⼼とする国家)で あり、他の国家から常に脅かされながらアナーキーな世界の中に存在していたからである。 このようなシステムでは、⾃分の国家を愛する⼈々は、対⽴する国家に住む⺠族を容易に侮 蔑するようになる。国内のエリートが安全保障政策の⽀持を得るために敵対国を悪者にす ると、問題はさらに深刻になる。

ハイパーナショナリズムが最も肥沃な⼟壌を⾒つけるのは、⼤規模な軍隊に依存する軍事 システムである。これらの軍隊を維持するためには犠牲が必要であり、国家は国⺠感情に訴 え、国⺠を動員して犠牲を払わせる誘惑に駆られる。国家が⼩規模な職業軍や、膨⼤なマン パワーなしに活動する複雑なハイテク軍事組織に頼ることができる場合、ハイパーナショ ナリズムの加速は最も起こりにくくなる。このような理由から、核兵器はナショナリズムを 抑制する働きをする。なぜなら、核兵器は軍事⼒の基盤を⼤衆軍から⼩規模なハイテク組織 へとシフトさせるからである。

1945 年以降、ヨーロッパでハイパーナショナリズムが急激に減少したのは、核⾰命のため だけでなく、戦後の占領軍によって抑制されたためである。また、欧州の国家は、⾃国の安 全保障を担うことがなくなったため、国防への国⺠の⽀持を⾼めるためにナショナリズム を煽る動機付けがなくなった。しかし、決定的な変化は、ヨーロッパ政治の中⼼がアメリカ とソビエト連邦に移ったことである。この 2 つの国家は、さまざまな⺠族的背景を持つ⼈々 で構成されており、ヨーロッパに⾒られるような激しいナショナリズムは⾒られなかった。 ハイパーナショナリズムの不在は、戦後秩序が安定したことも⼿伝って、さらに⼤きな意味 を持つようになった。戦争への予期が薄れ、どちらの⼤国も国⺠を戦争に動員する必要に迫 られることはなかったのである。

⼆極、軍事⼒のバランス、核兵器…これらは、私が「⻑い平和」を説明する上で重要な要素である。

多くの思慮深い⼈々は、ヨーロッパの⼆極システムを嫌悪し、東ヨーロッパのソビエト帝国 を解体し、ソビエトの軍事⼒を低下させることによって、このシステムを終わらせようとし てきた。また、超⼤国間の軍事的平等を嘆く声も多い。ある者は、それが⽣み出した優柔不 断な膠着状態を批判し、代わりに軍事的優位の追求を推奨した。また、起こりもしない戦争 を抑⽌するために何千億ドルも投資したことを嘆き、その投資は、コストがかかっても成果 があったのではなく、無駄であったと証明している。核兵器については、それは間違いなく 悪いものであるとされる。戦後秩序の⽀柱である核兵器につきまとう悪評は、欧⽶の多くの ⼈々に、核兵器が平和を維持してきたという厳しい真実を認識させない。

しかし、過去はここまでだ。これからの平和はどうなるのだろうか。具体的には、NATO とワルシャワ条約機構が解体し、ソ連が東欧から、⽶国が⻄欧から撤退し、核兵器を持ち出 した場合、どのような新秩序が⽣まれる可能性があるのか、そしてそれを歓迎すべきだろう か、恐れるべきだろうか。

新しいヨーロッパ秩序の⼀つの側⾯は、多極化することである。ドイツ、フランス、英国、 そしておそらくイタリアは、⼤国としての地位を確⽴するであろう。ソ連は、軍事⼒の縮⼩ が確実であることに加え、東欧からの撤退により、⼤陸への戦⼒投射が困難になるため、超 ⼤国の地位から転落することになる。もちろん、ソ連がヨーロッパの主要な⼤国であること に変わりはない。その結果、4 ⼤国、5 ⼤国のシステムは、多極システムにつきものの問題 に悩まされ、不安定になりがちである。他の 2 つの側⾯、すなわち主要国間のパワー配分と 核兵器の配分は、それほど定かではないのである。実際、誰が核兵器を保有するかは、新し いヨーロッパが直⾯する最も困難な問題であろう。欧州の核の将来については、3 つのシナ リオが考えられる。


「核兵器なきヨーロッパ」シナリオ

多くのヨーロッパ⼈(と⼀部の⽶国⼈)は、ヨーロッパから核兵器を完全になくすことを求 めている。この「核兵器のないヨーロッパ」を実現するには、英国、フランス、ソ連が、⾃ 国の主権のお守りである核兵器を取り除く必要がある。少なくとも、それはあり得ないこと である。しかし、それを望む⼈々は、それが最も平和的な取り決めになると信じている。実 際、核兵器のないヨーロッパは、冷戦後に想定される秩序の中で最も危険であるという特徴 がある。核兵器がもたらす警戒⼼、安全保障、⼤まかな平等性、そして相対的なパワーの明 確性といった平和的効果は失われるであろう。そうなると、平和は新秩序の他の側⾯、すな わち極の数とその間のパワー分布に依存することになる。ヨーロッパにおけるパワーの配 置は、世界⼤戦の間と同じように、緊張、危機、そしておそらくは戦争を引き起こすようなものになるであろう。

核兵器のないヨーロッパでは、ソ連と統⼀ドイツが最も強⼒な国家となるであろう。その間 に東欧の⼩さな独⽴国家が控えている。これらの東欧の⼩国は、ドイツと同様にソ連を恐れ ており、ドイツの侵略を阻⽌するためにソ連と協⼒する気にはなれないと思われる。実際、 この問題は 1930 年代に発⽣し、過去 45 年間のソ連による占領は、ソ連軍の存在に対する 東欧の 恐怖をほとんど緩和することができなかったのであろう。したがって、ドイツがポ ーランド、チェコスロバキア、あるいはオーストリアに対して武⼒を⾏使するシナリオは、 核兵器のないヨーロッパではあり得ることである。

そして、ソ連が東欧から撤退したからといって、永久に撤退することを保証するものでも ない。実際、東欧におけるロシアのプレゼンスは、過去数世紀の間、急上昇と急降下を繰り 返してきた。先⽇のワシントンサミットで、ゴルバチョフ⼤統領の交渉団の⼀⼈が、「1930 年代のドイツと同じような爆発物がある。⼤国としての屈辱。経済的な問題。ナショナリズ ムの台頭。危険を過⼩評価してはならない」と、重⼤な警告を発している。

東欧諸国間の対⽴は、新しい欧州秩序の安定性を脅かす可能性もある。ハンガリーとルーマ ニアの間には、かつてハンガリー領だったトランシルバニア地⽅の少数⺠族ハンガリー⼈ に対するルーマニアの処遇をめぐり、すでに深刻な緊張が存在している(同地域には、現在 も約 200 万⼈のハンガリー⼈が居住している)。ソ連の東欧占領がなければ、ルーマニアと ハンガリーはこの問題をめぐって今頃戦争になっていたかもしれないし、将来戦争に発展 するかもしれない。ソ連帝国の崩壊に伴う東欧の潜在的な危険箇所は、これだけではあるま い。ポーランドとドイツの国境もトラブルの元になりかねない。ポーランドとチェコスロバ キアには国境紛争がある。ソ連が共和国の独⽴を認めれば、ポーランドやルーマニアは、か つて⾃分たちの領⼟であったソ連領の領有権を主張することになるかもしれない。さらに 南に⽬を転じれば、ユーゴスラビアの内戦もあり得る。ユーゴスラビアは、アルバニア⼈が 多数派を占めるコソボをめぐり、アルバニアと対⽴する可能性がある。ブルガリアはマケド ニアをめぐってユーゴスラビアと対⽴し、トルコはブルガリアの少数⺠族トルコ⼈に対す る扱いに反感を抱いている。核のないエデンの園といわれた欧州で、こうした⺠族・国境紛 争が戦争に発展する危険性は、冷戦時代のノスタルジーを誘うに⼗分である。

東欧での戦争は、東欧の⼈々に⼤きな苦しみをもたらすだろう。また、特に流動的な政治 の混乱が影響⼒拡⼤の機会を提供したり、⼤国のいずれか、あるいは別の国家に友好的な国 家が敗戦する恐れがあったりすれば、それは⼤国にまで拡⼤する可能性がある。冷戦時代、 両⼤国は世界各地で第三世界の紛争に巻き込まれたが、その多くは戦略的重要性の低い遠 ⽅の地域であった。東欧はソ連とドイツに直接隣接しており、経済的にも戦略的にも重要な 地域である。したがって、東欧での紛争は、過去に第三世界の紛争が超⼤国に提供した以上 に、これらの勢⼒に⼤きな誘惑を与えるだろう。さらに、東欧諸国は、⼤国をその地域紛争 に引きずり込む強い動機を持つであろう。なぜなら、そのような紛争の結果は、各当事者が 外部同盟者を⾒つけることに相対的に成功するかどうかによって⼤きく左右されるからで ある。

冷戦後のヨーロッパに出現する通常兵⼒の正確なバランスを予測することは困難である。 ソ連は東欧から撤退した後、すぐにそのパワーを回復するかもしれない。その事例では、ソ 連のパワーはドイツのパワーを凌駕するだろう。しかし、国家の遠⼼⼒がソ連を引き離し、 統⼀ドイツに匹敵するような国家は残らないかもしれない。最後に、おそらく最も可能性が ⾼いのは、ドイツとソ連がほぼ同等のパワーを持つ国として出現することであろう。最初の 2 つのパワーの形態は、2 つの主要国の間に著しい軍事的不平等があるため、特に懸念され るが、ソ連とドイツのパワーがバランスしていたとしても、懸念される理由はあるだろう。

なぜなら、そのような体制における安全保障は、⼤衆の軍隊に依存しており、これまで⾒ てきたように、⼤衆が動員されなければ維持できないことが多いからである。この問題は、 おそらく、国境が不明確で少数⺠族の独⽴主義者がいる東欧で最も深刻であろう。しかし、 ドイツでも問題が起こる可能性がある。ドイツ⼈は過去 45 年間、ハイパーナショナリズム に対抗し、過去の暗⿊⾯を直視して、概して⽴派な成果を上げてきた。しかし、最近、⼀部 の著名なドイツ⼈が、歴史教育においてナショナリズムの復活を求めたような前兆は、不気 味なものである。

これらの理由から、多くのヨーロッパ⼈が切望している「核のないヨーロッパ」が実現しな いのは当然と⾔えるかもしれない。


現在の所有者」のシナリオ

このシナリオでは、英国、フランス、ソ連は核兵器を保持するが、欧州に新たな核保有国は ⽣まれない。中欧に⾮核地帯を作り、⼤陸の側⾯に核兵器を残すという構想も欧州では⼈気 があるが、これも⾒通しが⽴たない。

ドイツは、⻑期的にはそれを阻⽌するだろう。ドイツ⼈は、ソ連の通常兵器による⾃国へ の直接攻撃の可能性に対して、ポーランド⼈やチェコ⼈に前⽅防衛を任せようとは思わな いだろう。また、ドイツ⼈は、ソ連が⾮核のドイツに対して核の恐喝を永久に⾏わないこと を信⽤することもできないだろう。したがって、NATO がそうであったように、彼らは最 終的に核兵器を最も確実な安全保障の⼿段として期待することになる。

東欧の⼩国も、核兵器を保有する強い動機を持つことになる。核兵器がなければ、ソ連や、 核拡散で阻⽌されたドイツによる核の恐喝にさらされることになる。これらの⼤国が核兵 器を持たなかったとしても、東欧の国家がドイツやソ連の通常戦⼒に匹敵することはあり えない。 つまり、現在の所有者が増殖することなく継続するシナリオは、明らかに考えにくいのだ。


「核拡散」のシナリオ

冷戦後、欧州で最も可能性の⾼いシナリオは、さらなる核拡散である。このシナリオは危 険性をはらんでいるが、欧州の安定を維持する上で最⼤の希望となる可能性もある。すべて は核拡散をどのように管理するかにかかっている。誤った管理による拡散は災いをもたら すかもしれないし、うまく管理された拡散は、⻑い平和の時代とほぼ同じ安定した秩序を⽣ み出すかもしれない。

核拡散の管理を誤れば、その危険性は計り知れない。例えば、イスラエルがイラクの核武装 を阻⽌したように、核拡散の過程そのものが、既存の核保有国に⾮核の隣国の加盟を阻⽌す る強い動機を与える危険性がある。新たな核保有国の間で不安定な核競争が⽣じる危険性 もある。核戦⼒を強固なものにするための資源がないため、先制攻撃への恐怖やインセンテ ィブが⽣まれ、危機的状況に陥る可能性がある。最後に、核の引き⾦に触れる指の数が増え ることで、核拡散は、核兵器が誤って発射されたり、テロリストに捕らえられたり、狂⼈に 使⽤されたりするリスクを⾼めるという危険もある。

現在の核保有国が適切な措置を取れば、こうした拡散の危険性を軽減することができる。予 防的な攻撃を防ぐために、安全保障を拡⼤することができる。新しい核保有国が抑⽌⼒を確 保するのを助けるために、技術⽀援を提供することができる。また、新興の核保有国が、⾃ 分たちが⼿に⼊れようとしている軍事⼒の致命的な特性を理解するよう社会化を⽀援する こともできる。このように適切に管理された核拡散は、平和を強化するのに役⽴つだろう。 理想的には、ドイツで核拡散をストップさせるべきである。ドイツには⼤きな経済基盤があ り、安全な核戦⼒を維持する余裕がある。さらに、ドイツは核兵器がないと不安を感じるに 違いない。不安を感じれば、その強⼤な通常戦⼒によって、ヨーロッパの静穏を乱す⼤きな ⼒が⽣まれるだろう。しかし、核兵器の拡散を極端に防⽌することが不可能であるならば、 現在の核保有国は東欧での拡散を放置し、安全な⽅向に拡散させるためにできる限りの努⼒をすべきである。

しかし、私は拡散をうまく管理することができると悲観的である。核クラブのメンバーは、 核拡散に抵抗する可能性が⾼いが、抵抗しながらこの厄介な過程を管理することは容易で はなく、抵抗する動機もいくつかあるであろう。既存の核保有国は、新しい核保有国が安全 な抑⽌⼒を構築するのを助けることに⾮常に慎重である。それは単に、軍事機密を他の国家と共有することは、国家の⾏動規範に反するからである。結局のところ、機密の軍事技術に 関する知識は、その技術が敵対国に渡れば、提供国を敵に回すことになりかねない。さらに、 欧州での核拡散は 1968 年の核拡散防⽌条約の正当性を損ない、世界的な核拡散の⽔⾨を開 くことになりかねない。現在の核保有国はそれを望まないだろうから、拡散を管理しようと するのではなく、阻⽌しようとすることにエネルギーを費やすだろう。

核拡散が起こるのは、国際的に⽐較的平穏な時期であろう。なぜなら、新興の核保有国と 対⽴する国家は、その過程を武⼒で中断しようとする強⼒な動機を持つからである。しかし、 潜在的な核保有国の市⺠による拡散への反対は⾮常に⼤きく、また核クラブによる外部か らの抵抗も⼤きいため、これらの国が核戦⼒構築のための国内外でのコストを⽀払う気に なるには、危機が必要かもしれない。これらのことは、核拡散が事実上、誤った管理下に置 かれることが確実な国際的条件の下で⾏われる可能性が⾼いことを意味している。


戦争は時代遅れ?

欧州政治を学ぶ多くの学⽣は、冷戦後の欧州に関する私の悲観的な分析を否定するだろう。 彼らは、核兵器の有無にかかわらず、多極化した欧州は現在の秩序に劣らず平和であると⾔ うだろう。平和な未来のための 3 つの具体的なシナリオが提唱されており、それぞれがよ く知られた国際関係論に基づいている。しかし、これらの平和に関する「ソフト」理論は、いずれも⽋陥がある。

最初の楽観的シナリオでは、⾮核の欧州は平和を維持する。なぜなら、欧州⼈は通常戦争で さえ恐ろしいものだと認識しているからである。歴史に学び、国の指導者は戦争を回避する よう配慮するだろう。このシナリオは、「戦争の陳腐化」理論に基づいている。この理論で は、現代の通常戦争は 1945 年までに、国家運営の⼿段としては考えられないほど致命的な ものになったと仮定している。戦争は昨⽇の悪夢である。

第⼆次世界⼤戦が起こったという事実は、この理論に疑問を投げかけている。通常戦争を放 棄するようヨーロッパ⼈を説得できる戦争があるとすれば、それは膨⼤な犠牲者を出した 第⼀次世界⼤戦のはずである。この理論の重要な⽋陥は、すべての通常戦争が⻑く⾎⽣臭い 消耗戦になるという仮定である。その⽀持者は、1945 年以降のいくつかの戦争や第⼆次世 界⼤戦の終盤の戦闘から、通常戦場でも迅速かつ決定的な勝利を得ることが可能であり、⻑ 期にわたる紛争の惨禍を避けることができるという証拠を無視しているのである。通常戦 争はむしろ安価に勝利することができる。核戦争は、戦場で何が起ころうと、どちらの側も 相⼿による破壊を免れることはできないからである。したがって、戦争を回避するためのイ ンセンティブは、核の世界では通常の世界とは別の次元の強さを持つことになる。

このシナリオには、他にもいくつかの⽋陥がある。ヨーロッパ⼈が戦争は時代遅れだと考 えていることを⽰す体系的な証拠はない。ルーマニア⼈とハンガリー⼈は、そのメッセージ を受け取っていないようだ。しかし、ヨーロッパで戦争はもはや考えられないと広く信じら れていたとしても、態度が変わる可能性がある。安全保障問題に関する世論は、国際環境の 変化だけでなく、エリートによる操作に反応し、気まぐれであることはよく知られている。 冷戦の終結は、これまで⾒てきたように、欧州におけるパワーの配置に⼤きな変化をもたら し、戦争と平和の問題に対する欧州の考え⽅を変えるに違いない。たとえば、⽶軍が中欧か ら撤退し、ドイツ⼈が⾃国の安全を確保するようになれば、東欧を⽀配することの利点につ いてドイツの考え⽅が著しく変化する可能性はないのだろうか。ソ連に対する⾃分たちの ⽴場を強化するために、実質的に弱い東欧国家に対する通常戦争を容認する可能性はない のだろうか。最後に、戦争を可能にするためには、戦争が起こりうると判断した国が1つだ けあればよいのだ。


繁栄は平和への道?

第⼆の楽観的シナリオの⽀持者は、ヨーロッパの将来について、1992 年に到来する統⼀欧 州市場、すなわち欧州共同体の夢の実現に楽観的な⾒⽅を⽰しています。強⼒な EC は、欧 州経済の開放と繁栄を保証し、欧州の国家間の協⼒関係を維持することができると、彼らは 主張する。繁栄は平和をもたらす。新しく統⼀されたドイツは、EC の穏やかな包囲網に包 まれることで、攻撃的なドイツの脅威を取り除くことができる。東欧やソビエト連邦も、い ずれは EC の仲間⼊りをすることができるのである。そして、平和と繁栄は、⼤⻄洋からウ ラル⼭脈までその勢⼒を拡⼤することだろう。

このシナリオは、経済リベラリズムの理論に基づいている。この理論では、国家は主に繁 栄を達成したいという願望によって動機づけられ、指導者は国⺠の物質的厚⽣を、安全を含 む他のすべての考慮事項よりも優先させると仮定している。安定は軍事⼒ではなく、リベラ ルな経済秩序の構築によってもたらされる。

リベラルな経済秩序は、平和を増進し、紛争を減少させるために、いくつかの点で有効であ る。まず、貿易システムを機能させ、国家を豊かにするためには、多⼤な政治的協⼒が必要 である。国家が豊かになればなるほど、政治的協⼒へのインセンティブが⾼まる。政治的協 ⼒と繁栄の間には、善意のスパイラルが形成される。次に、リベラルな経済秩序は、経済的 相互依存を促進する。これは、国家が経済領域において相互に脆弱であるという状況である。 相互依存が⾼まれば、すべての国家が経済的に報復できるため、他国に対して不正や攻撃的 な⾏動をとる誘惑が少なくなるという理論である。そして、EC のような国際機関は、政治 的な協⼒が進むにつれて強⼒になり、やがて超国家的な存在になると主張する理論家もい る。つまり、サッチャーの EC への思いは、まったくもって正しいのである。

この理論にはひとつ重⼤な⽋陥がある。それは、この理論を⽀える主要な前提が間違ってい ることだ。国家は、繁栄を達成したいという欲求を主な動機としているわけではない。国家 は国際政治環境と国際経済環境の中で活動しており、この 2 つのシステムが対⽴した場合、 前者が後者を⽀配するのである。アナーキー状態の国際政治システムにおいて、国家にとっ て⽣き残ることが最⾼の⽬標である。

経済リベラリズムの⽀持者は、アナーキーが国家⾏動に及ぼす影響をほとんど無視し、その 代わりに経済的インセンティブに集中している。しかし、この誤りを正すと、2 つの理由で 彼らの主張は破綻する。

安全保障をめぐる競争は、経済リベラリズムの理論によれば、国家が⾏わなければならな い協⼒を困難にする。安全保障が希少になると、国家は絶対的な利益よりも相対的な利益に 関⼼を持つようになる。交換に求めるのは、「両者が得をするか」ではなく、「どちらがより 多くの利益を得るか」である。そして、相⼿国がその利益を軍事⼒に転換し、その⼒を使っ て後のラウンドで強制的に勝利することを恐れて、相⼿国がより多くの利益を得るのであ れば、絶対的な経済的利益を得る協⼒でさえも拒否するのである。国家が絶対的な利益だけ を気にするのであれば、協⼒ははるかに容易に達成できる。つまり、経済的なパイが全体と して拡⼤し、各国家が少なくともその⼀部を獲得できるようにすることが⽬標である。しか し、アナーキーでは安全保障が乏しいため、国家は相対的な利益に対する懸念を強め、現在 のパワーバランスを崩さないようにパイを細かく切り分けない限り、協⼒は困難となる。

さらに、相互依存は、協⼒と同様に紛争を引き起こす可能性が⾼い。なぜなら、国家は⾃ 国の安全保障を強化するために、相互依存が⽣み出す脆弱性から逃れようと必死になるか らである。危機や戦争の際、重要な経済的供給を他国に依存する国家は、その供給を断たれ たり、脅迫されたりすることを恐れ、武⼒によって供給源を奪おうとすることで対応する可 能性がある。国家が経済的⾃給⾃⾜を達成するために攻撃的な軍事政策をとった例は、歴史 上数多く存在する。戦間期の⽇本やドイツを思い起こせばよい。また、1970 年代初頭のア ラブの⽯油禁輸の際、アメリカではアラブの油⽥を軍事⼒で奪取することが盛んに議論さ れたことを思い起こす。

20 世紀のヨーロッパでは、2 つの時期にリベラルな経済秩序と⾼度な相互依存が⾒られた。 経済リベラリズムの理論によれば、その時期には安定性が得られるはずであった。しかし、 そうはならなかった。

最初の事例は、経済リベラリズムと明らかに⽭盾している。1890 年から 1914 年までの数 年間は、おそらくヨーロッパの歴史の中で最も経済的相互依存が強かった時期である。しか し、そのような繁栄の時代は、常に第⼀次世界⼤戦のために隠蔽されていたのである。 第⼆の事例は、冷戦時代を対象としたもので、この間、EC 国家間には多くの相互依存が存 在し、国家間の関係は⾮常に平和的であった。この事例が経済リベラリズムの主張の中⼼で あるのは⾔うまでもない。

この時期、相互依存と安定の間に相関関係があることは確かだが、それは相互依存が⻄側 ⺠主主義諸国間の協⼒を引き起こしたという意味ではない。むしろ、冷戦が⻄側⺠主主義諸 国間の協⼒の主要な原因であり、EC 域内関係が繁栄した主な理由である可能性が⾼い。 強⼒で潜在的に危険なソ連は、⻄側⺠主主義諸国が共通の脅威に対処するために結束する ことを余儀なくされた。この脅威は、EC 国家間の経済協⼒から⽣じる相対的利益に対する 懸念を和らげ、⻄側⺠主主義諸国は同盟相⼿のパワーを⾼めることに関⼼を抱くようにな った。パワーが増⼤するごとにソビエトに対する抑⽌⼒が⾼まる。さらに、⻄側諸国は、ソ 連が東⽅に迫り、⻄側諸国の争いの種を刈り取ろうとする中で、互いに衝突を避けようとす る強⼒な動機を有していた。

さらに、EC の軍事的カウンターパートである NATO におけるアメリカの覇権的⽴場は、 ⻄側⺠主主義諸国に対するアナーキーの影響を緩和し、⺠主主義諸国間の協⼒を誘発する ものであった。アメリカはソ連の脅威から⾝を守るだけでなく、どの EC 国家も他の国家に 攻撃することがないように保証した。例えば、フランスはドイツの再軍備を恐れる必要はな かった。⽶国がドイツに駐留することで、ドイツは封じ込められたからだ。⽶国が夜警の役 割を果たすことで、⻄ヨーロッパ国家間の相対的な利益に対する懸念は緩和され、さらにこ れらの国家は経済の相互依存関係を強固なものにすることを望んだのである。

⻄ヨーロッパに対する現在のソ連の脅威を取り除き、⽶軍を帰還させれば、EC 国家間の 関係は根本的に変わるだろう。ソ連の脅威や⽶国の夜警がなければ、⻄ヨーロッパ諸国は、 冷戦勃発以前の何世紀にもわたってそうしてきたように、互いに疑念を抱きながら相⼿を ⾒るだろう。その結果、彼らは利益の不均衡を⼼配し、協⼒によって⽣じる⾃治権の喪失を 懸念するようになる。この新しい秩序における協⼒は、冷戦時代よりも困難なものとなるだ ろう。対⽴の可能性はより⾼くなる。

要するに、EC のパワーアップが多極化する欧州の平和の基礎になるという主張には、懐 疑的な理由がある。


⺠主主義国家は本当に平和を愛しているのか?

第 3 のシナリオでは、20 世紀初頭以降、ヨーロッパの多くの国家が⺠主化され、リベラル な⺠主主義国家は互いに争うことがないため、戦争は回避される。少なくとも、⻄ヨーロッ パに⾃由⺠主主義国家が存在することで、その半分のヨーロッパは武⼒紛争から解放され る。最⼤でも、東欧やソ連に⺠主主義が広がり、平和を後押しする。平和は⺠主主義と同義 であるという考え⽅は、リベラリズムにも新保守主義にも共通する国際関係のビジョンである。

このシナリオは、「平和を愛する⺠主主義国」論に⽴脚している。それには 2 つの主張がある。

第⼀に、権威主義的指導者は⺠主主義国の指導者よりも戦争に向かいやすいと主張する⼈ がいるが、それは権威主義的指導者が戦争の主な負担者である国⺠に対して説明責任を持 たないからである。⺠主主義国家では、戦争の代償を払う市⺠は、政府の⾏動に対してより ⼤きな発⾔⼒を持つ。つまり、⾎まみれの代償を払うのは国⺠であるため、問題を起こすこ とをためらうのだ。したがって、国⺠のもつ⼒が強ければ強いほど、戦争は少なくなる。 第 2 の主張は、⾃由⺠主主義国家の国⺠が、⾃国⺠と他国⺠の⺠主的権利を尊重するとい う主張に基づいている。彼らは⺠主主義国家を他の国家よりも正当なものとみなしており、 ⺠主主義国家に外国の政権を武⼒で押し付けることを嫌う。このように、⺠主主義国家同⼠ が対峙するとき、他の国際関係にはない戦争への抑制が働くのである。

なぜなら、⺠主主義国家の国⺠は戦争のコストに特に敏感であり、それゆえ権威主義的指 導者よりも戦争をしたがらないという主張を⽀持することはできないからである。実際に は、歴史的な記録によれば、⺠主主義国家は権威主義国家と同じように戦争をする可能性が⾼い。

さらに、⺠主主義国家であろうとなかろうと、⼤衆は⺠族主義的、宗教的熱情に深く染ま り、侵略を⽀持しやすく、コストには全く無頓着になることがある。⾰命後のフランスでナ ポレオンの戦争が広く国⺠に⽀持されたことは、この現象の⼀例である。同時に、権威主義 的指導者は、戦争が政権を弱体化させる可能性のある⺠主的勢⼒を解き放つ傾向があるた め、戦争をすることを恐れる場合が多い。つまり、戦争は権威主義的指導者だけでなく、そ の国⺠にも⾼いコストを強いる可能性がある。

第 2 の議論は、⺠主主義国間の国境を越えた⺠主的権利の尊重を強調するものであるが、 ⼀般にナショナリズムや宗教原理主義などの他の要因に打ち勝たれる⼆次的要因に依拠している。さらに、この議論にはもう⼀つ問題がある。⺠主主義国家、特に東欧で台頭しつつ あるような駆け出しの⺠主主義国家が権威主義国家に逆戻りする可能性は常に存在する。 このような後戻りする脅威は、ある⺠主主義国家が、将来、他の⺠主主義国家から反旗を翻 されないとは断⾔できないことを意味する。そのため、⾃由⺠主主義国家は、国家間の相対 的なパワーを⼼配しなければならない。これは、問題を回避するために、それぞれが他国へ の侵略を考えるインセンティブを持つということに等しい。残念なことに、⾃由⺠主主義国 家でさえ、アナーキーを超えることはできないのである。

演繹的論理の問題はさておき、⼀⾒したところ、歴史的記録は平和を愛する⺠主主義国家 の説を強く⽀持しているように⾒える。⾃由⺠主主義国家が互いに争ったことはないよう に⾒えるからだ。しかし、実証的な問題から、この問題には疑問が残る。

第 1 に、過去 2 世紀にわたって⺠主主義国家の数は少なく、2 つの⺠主主義国家が互いに争 うような事例は少なかったということである。通常、3 つの著名な事例が挙げられる。英国 と⽶国(1832 年から現在)、英国とフランス(1832 年から 1849 年、1871 年から 1940 年)、 そして 1945 年以降の⻄側⺠主主義国家である。

第 2 に、これら 3 つの事例で戦争が起こらなかった理由には、他に説得⼒のある説明があ り、平和を愛する⺠主主義国家の理論を受け⼊れるには、これらの対抗する説明を排除する必要がある。19 世紀の英⽶関係は決して円満ではなかったが、20 世紀に⼊ってからは極め て良好な関係にあり、この理論の予想にぴったりと当てはまる。しかし、その関係は、英国 と⽶国が協⼒せざるを得なかった共通の脅威、すなわち、今世紀前半のドイツの脅威とその 後のソ連の脅威によって容易に説明することができる。フランスと英国の関係も同じであ る。19 世紀の⼤半の間、フランスとイギリスの関係は良好ではなかったが、世紀末にドイ ツの台頭により、その関係は⼤きく改善された。最後に、前述したように、ソ連の脅威は、 1945 年以降、⻄側⺠主主義諸国が戦争をしなかったことを説明する上で、⼤きな意味を持 つ。

第 3 に、いくつかの⺠主主義国家は互いに戦争⼨前まで⾏ったことがあり、戦争が起きな いのは単に偶然によるものかもしれないことを⽰唆している。フランスと英国は、1898 年 のファショダ危機の際に戦争に近づいた。1920 年代、フランスとワイマール・ドイツはラ インラントをめぐって衝突していたかもしれない。⽶国は冷戦時代、チリのアジェンデ政権 やグアテマラのアルベンス政権など、第三世界の選挙で選ばれた多くの政権と衝突している。

最後に、ヴィルヘルム・ドイツを⺠主主義国、あるいは少なくとも準⺠主主義国に分類す る⼈もいる。そうであれば、第⼀次世界⼤戦は⺠主主義国同⼠の戦争となる。

ヨーロッパに⺠主主義が広まることは、⼈権上⼤きな利益をもたらす可能性があるが、冷 戦後のヨーロッパの国家間の平和的な関係を保証するものではないだろう。ほとんどの⽶ 国⼈は、この議論が直感に反していることに気づくだろう。⽶国は基本的に平和を愛する国 であり、その平和主義は⺠主主義的性格によるものだと考えている。このことから、⺠主主義国家は権威主義国家よりも平和的であると⼀般化し、欧州が完全に⺠主化されれば戦争の脅威はほとんどなくなるという結論に⾄るのである。このような国際政治の⾒⽅は、今後 数年の間に起こる出来事によって否定される可能性が⾼い。


冷戦を懐かしんで

私の分析が意味するところは、逆説的ではあるが、単純明快である。冷戦の終結を脅かす ような事態は危険である。⻄側諸国は、ヨーロッパの平和を維持することに関⼼を持っている。したがって、冷戦秩序を維持することに関⼼があり、それゆえ、冷戦対⽴を継続させる ことに関⼼がある。冷戦の対⽴は、過去に優勢であったよりも低いレベルの東⻄の緊張で継 続されるかもしれないが、冷戦を完全に終わらせることは、解決するよりも多くの問題を引 き起こすだろう。

冷戦の運命は、主にソ連の⼿に委ねられている。ソ連は、ヨーロッパを制圧すると真剣に脅 すことができる唯⼀の超⼤国であり、ソ連の脅威は NATO をまとめる接着剤となっている。 この攻撃的脅威を取り除くと、⽶国は欧州を放棄する可能性が⾼い。40 年にわたって主導 してきた防衛同盟は崩壊し、過去 45 年間、欧州の平和を維持してきた⼆極秩序は終わりを 告げるかもしれない。

冷戦を永続させるために、⽶国や⻄ヨーロッパができることはほとんどない。 ひとつには、国内政治がそれを阻んでいる。⻄側諸国の指導者たちは、単にソビエトを引 き留めるために中欧に軍を維持する必要性を国家安全保障政策の基礎に据えることはでき ないのは明らかである。ソ連をおびき寄せて秩序を維持するために⼤量の軍隊を配備する という考えは、奇妙なものとして却下されるだろうし、冷戦を終結させて東欧からソ連の軛 を取り除くことが世界をより安全でより良いものにするという⼀般的信念に反するものである。

もうひとつは、衰退しつつある敵対国を⽀援するという発想が、国家の基本的な⾏動に反 していることだ。国家は、システムにおける⾃らの相対的なパワーに最⼤の関⼼を寄せてお り、それゆえ、互いを利⽤する機会をうかがう。どちらかといえば、敵対国が衰退すること を好み、その過程を早め、衰退の距離を最⼤にするためにできることは必ずする。つまり、 国家は、どのようなパワー分布が最も安定をもたらすかを考え、そのような秩序を構築し、 維持するためにあらゆる⼿段を講じることはない。むしろ、潜在的な敵対者に対して⾃国の パワーの優位性を最⼤化するという狭い⽬標を追求するのである。その結果⽣まれる特定の国際秩序は、その競争の副産物に過ぎない。

例えば、ヨーロッパにおける冷戦秩序の成り⽴ちを考えてみよう。どの国家もそれを作ろ うと意図したわけではない。実際、⽶国とソ連は冷戦の初期に、ヨーロッパにおける相⼿の ⽴場を弱めることに懸命に取り組み、そうすれば、ヨーロッパ⼤陸における⼆極的な秩序は 終焉していただろう。1940 年代後半にヨーロッパに出現した極めて安定したシステムは、 超⼤国間の激しい競争がもたらした予期せぬ結果であった。

さらに、⽶国や⻄ヨーロッパがソ連の超⼤国としての地位の維持に協⼒しようと思っても、 それができるとも思えない。ソ連が東欧から撤退し、軍備を縮⼩しているのは、経済がひど く低迷していることが⼤きな理由である。ソ連は⾃分たちで経済を⽴て直す⽅法を知らないし、⻄側政府が彼らにできることはほとんどない。⻄側諸国は、ソ連経済に悪意ある災い を与えることはできるし、避けるべきだが、今の段階では、⻄側諸国が⼤きなプラスの影響 を与えることができるとは考えにくい。

⻄側諸国が冷戦を維持できないという事実は、⽶国が現在の秩序を維持するための試みを 全くしないということを意味しない。ヨーロッパからの完全な互いの撤退を回避するため に、できることを⾏うべきである。例えば、通常兵器管理協議における⽶国の交渉姿勢は、 相互の⼤幅な戦⼒削減を⽬指すべきであるが、完全な相互撤退は考えるべきではない。ソ連 はいずれにせよ⼀⽅的に全軍を撤退させる可能性があり、その場合、⽶国がそれを阻⽌する ことはほとんどできない。

ソ連が東欧から完全に撤退することが避けられないとすれば、⻄側は多極化する欧州でい かに平和を維持するかという問題に直⾯することになる。その際、3 つの政策的処⽅箋が必 要となる。

第 1 に、⽶国は欧州における核兵器の拡散を限定的かつ慎重に管理するよう奨励すべきで ある。冷戦後のヨーロッパで戦争を回避するための最善の策は核抑⽌⼒である。したがって、 中欧から撤退したソ連と⽶国の核兵器を補うために、ある程度の核拡散は必要である。理想 的には、これまで述べてきたように、核兵器はドイツには広まるが、他の国家には広まらな いことである。

第 2 に、英国、⽶国、および⼤陸国家は、冷戦後の欧州で確実に発⽣する集団化やいじめ を相殺するために、新たに出現する侵略国に積極的かつ効率的に対抗しなければならない。 しかし、多極システムにおけるバランシングは、地理的な問題や協調の問題から、通常、問 題の多い取り組みとなる。英国や⽶国は、⼤陸から物理的に離れているため、⼤陸で起こる ことにほとんど利益がないと結論づけるかもしれない。それは、⾃分たちの責任と、より重 要な利益を放棄することになる。両国は、2 つの⼤戦前にドイツに対抗することに失敗し、 戦争の可能性を⾼めた。欧州の平和のためには、過去の過ちを繰り返さないことが肝要である。

両国は、戦争を始める恐れのある⼤陸国家に対して展開できる軍備を維持しなければなら ない。そのためには、⼤陸の関与を継続する政策を⽀持するよう、国⺠を説得しなければな らない。これはかつてよりも困難なことである。なぜなら、その主要⽬的は差し迫った覇権 を阻⽌することよりも、平和を維持することであり、覇権の阻⽌は公に説明しやすい⽬的で あるからである。さらに、この処⽅箋は、安定を強化することではなく、相対的パワーの最 ⼤化を重視するのが国家の基本的な性質であることから、両国に不慣れな作業を要求して いる。とはいえ、英国も⽶国も平和に⼤きな関⼼を寄せている。特に、欧州では⼤規模な核 兵器の使⽤を伴う戦争が起こる可能性がある。したがって、両国の政府が国⺠にこの利益を 認識させ、それを保護する政策を⽀持させることは可能であるはずだ。

ソ連はいずれ過去の拡張主義に戻り、現状を覆すような脅威を与えるかもしれない。そう なれば、冷戦に逆戻りである。しかし、ソ連が現状維持の⽅針を堅持するならば、ソ連のパ ワーはドイツに対抗し、東欧の秩序を維持する上で重要な役割を果たす可能性がある。ソ連 が何らかのバランシングを⾏う事例では、⽶国はかつての敵国と協⼒し、冷戦時代の不信感 を持ち込まないことが重要である。

第 3 に、特に東欧においてハイパーナショナリズムを抑制するための協調的な努⼒が必要 である。ナショナリズムは冷戦時代に抑制されたが、ソ連と⽶国がヨーロッパの中⼼から離 れると再び出現する可能性がある。ナショナリズムを抑えない限り、トラブルの元となる。 偽りの排外主義的な歴史を教えることは、ハイパーナショナリズムを広める主な⼿段であ るから、誠実な⺠族の歴史を教えることは特に重要である。不誠実な⾃虐史観や⾃画⾃賛の 歴史を教える国家は、公的に批判され、制裁されるべきだろう。

これらの課題はいずれも容易なものではない。実際、私が提⽰する処⽅箋の⼤半は守られ ないと予想される。そのほとんどは、⽶国と欧州の国内世論の重要な潮流や国家⾏動の基本 的性質に反している。また、たとえそれが守られたとしても、欧州の平和は保証されないだ ろう。したがって、冷戦が本当に過去のものとなったのであれば、過去 45 年間の安定が今 後数⼗年の間に再び訪れることはないだろう。

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