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メジャーリーガーが集ったLAの粗末なグラウンド:日本未公開野球映画を観る(29)

Harvard Park(2012)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

「ロス暴動」発端の地

 ロサンゼルス南部の小さく粗末なグラウンドについてのドキュメンタリー。BET(Black Entertainment Television)で放送された。
 ドジャー・スタジアムから6キロほど南にあるハーバード・パークの周辺(サウスセントラル)は暴力や薬物が蔓延する地域だが、このグラウンドは1982年から94年まで、野球のシーズンオフに名だたるメジャーリーガーや将来有望なマイナーリーガー、プロをめざす若者らが集まり、切磋琢磨する場となっていた。
 シンプルに"The Program"と呼ばれたこの集まりを始め、終始中心にいたのは、ダリル・ストロベリーとエリック・デービス。この地域出身の2人はリトルリーグ時代から親しかったが、80年のドラフトでそれぞれメッツの1巡目(全体1位)、レッズの8巡目に指名されてプロ入りしていた。オフに地元に帰って春季キャンプ前の調整をここで始めたところ、既にプロになっている選手やプロをめざす若者が次第に集まるようになり、恒例化していった。

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ハーバード・パークの空撮映像(Google Mapsより)

 ここにプロとして、またプロをめざして集まった選手はバリー・ラーキン、フランク・トーマス、シェーン・マック、ロイス・クレイトンら錚々たる面々をはじめ、メジャー経験者だけで50人を超える。彼らの多くはロサンゼルスを中心とする南カリフォルニアの出身で、ほとんどが黒人だった。
 1980年代初頭、プロ入りしたストロベリーとデービスが所属したマイナーリーグの小さな町では、LAなどカリフォルニアと違って黒人は少なく、居場所がないばかりか、差別的な扱いを受けることも珍しくなかった。そこでシーズンオフは地元に帰り、自分たちが育った場所で練習したのが「プログラム」の始まりだった。周辺は92年の「ロサンゼルス暴動」の発端となった場所で、日頃から一般市民が撃たれるようなことも珍しくない地域だが、メジャーリーガーらが練習していることはよく知られており、ハーバード・パークだけは安全だったという。
 作品はストロベリーとデービス、さらにはクレイトンやトーマスら、ここに集った(元)選手のインタビューと当時の映像を中心に展開するが、少年時代からライバルだった中心の二人はメジャーのスターになっても因縁が続いた。ただ、それについての話が展開するぶん、ハーバード・パークについての掘り下げがやや浅いのは残念なところだ(この地域におけるハーバード・パークと「プログラム」の意味について、例えば住民へのインタビューなどもあった方がよかっただろう)。

二人の因縁

 ストロベリーとデービスは同じ年にドラフトされたが、全体1位のストロベリーに対してデービスは8巡目と(彼ら自身にとっては)大きな差がついてプロでのキャリアが始まった。それはマイナーでの扱いやメジャー昇格の時期の差となってあらわれ、確かにストロベリーのもたらした衝撃に比べればデービスは地味だったということになるが、非常に高いレベルでの僅かな差に過ぎなかった。
 二人は91年、92年にそれぞれ地元のドジャースに移籍し、チームメイトになったが、これは長く続かなかった。その後いくつかのチームでプレーした後、97年にデービスが、98年にはストロベリーが相次いで結腸ガンと診断されたのは奇遇と言うべきだろうか。ストロベリーは99年の復帰後コカインの所持による二度目の逮捕を経てその年が最後のプレーになり、デービスも復帰したが2001年限りで引退した。
 88年にはストロベリーの打ったホームランに見えた打球をデービスが好捕したことがあったが、この年はストロベリーがホームラン王を獲った「キャリア・イヤー」で、これがなければ生涯でただ一度40本塁打に届いたのに、と笑う場面もあった。

野球のオアシス

 ストロベリーはメジャーデビュー以後圧倒的な才能でセンセーションを巻き起こし、86年のメッツのワールドシリーズ制覇にも貢献したが、メッツを去ってからは暴力や薬物使用などの問題を繰り返し、上述のガンの罹患も含め、暗い陰がついて回った。それにより30代には出場も減り、かつて確実と思われた殿堂入りには遠く及ばず現役を終えた。一方デービスは、ヘルニアの治療で欠場した95年を除いてはコンスタントにプレーを続け、90年にはやはりワールドチャンピオンに輝いた。このようにある意味対照的なキャリアを終えたとき、二人の通算成績が非常に近くなっていたのは興味深い(ストロベリーは1401安打、335本塁打、1000打点、打率.259。デービスは1430安打、282本塁打、934打点、打率.269)。
 本作でハーバード・パークについて屈託なく語り、2011年にここで開かれた「同窓会」に来たストロベリーは「陰」を感じさせず、見ていてほっとする。ライバルであり同志であるデービスとともに、荒廃する地元に野球のオアシスのような場所を築き、後に続く者を育てたことは、波乱に満ちた彼の人生においても「聖域」として輝いているのかもしれない。
 その一方で、彼ら黒人選手がこのような「オアシス」を必要とした背景として、80、90年代ですら彼らに対する差別があったことも忘れるべきでない。デービスがレッズ時代にマージ・ショット・オーナーに言われた「ミリオンダラー・ニガー」という言葉はそれを象徴している。彼女はこうした差別発言ゆえその後ペナルティを受けるが、この問題自体が消滅したわけではないことと、「黒人の野球離れ」がこの頃から顕著になっていったことは、アメリカ球界にとって重い課題であり続けている。


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