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病める時も、逆境も、そのものをパートナーにしてしまうことを試みます。死がわたしたちを分かつまで。

英語に cope with ~という言い回しがある。
恐らくそれほど難解ではないのだろうが、日本語に訳せと言われたらことばにつまってしまう。
辞書どおりなら「~と付き合う」

(※と思っていたのに記事を書き終えてから検索してみたら「対処する」だそうだ。たった二十五年でこの変わりよう。記事が全崩壊するので以下「付き合う」のままお付き合い頂きたい)

しかし、日常生活で使われる時はもうちょっと多くの意味あいを含んでいるようだ。


私がはじめてこれを耳にしたのは、高校時代。イギリスに留学していた最中のことだった。

You should cope with your own problem a lot more.

といったふうに促されて、うーん?と首を傾げた。
留学生はプロブレムのかたまりのようなものだ。どのプロブレムだろう。
考え込んでいると、ホストマザーが編みものの手をとめてゆっくりと言い直してくれた。

Cope with your migraine. 
最近、ちょっと多いでしょ。いろんな方法があるはずよ。何か見過ごしていることはない?」

mirgaine「偏頭痛」のこと。
本来の発音はマイグレインであるが、ホストマザーだけはどこから持ってきたのか、ミグレーネと紡いでいた。
滞在していた中部のなまりかと思ったものの、ホストマザー以外にそう発語する人に未だに出会ったことがない。



私は五歳のころから偏頭痛に悩まされてきた。
留学するにあたり、最大の不安は語学力でも食習慣でもなく、「偏頭痛」そのものであったぐらいに、偏頭痛を恐れていた。

一口に偏頭痛といってもさまざまなタイプが挙げられる。
私の場合は、まず目がチカチカしはじめ視界がほぼ埋め尽くされる(閃輝暗点)。
それが治まると激しい頭痛が起こり、嘔吐する。
どうやら「古典的(典型的)偏頭痛」に分類されるらしい。

寝ていれば治るし、半日程度しか続かないのが、かえって厄介なところだ。
周囲から「たいしたことないじゃないか」と思われがちだったのだ。

当時の私は虫歯が一本もなかったため、歯痛に苦しむ人や歯医者を怖がる他人のことがよく分からなかった。
それと同じことではないかと思う。心身の別なく、傷みというものは伝えづらいし、想像しにくい。


しかし、イギリスでは(恐らく多くの欧米諸国にも言えると思うのだが、私はイギリスにしか長期滞在の経験がないため、ここでは限定する)偏頭痛に対する意識が根本から違った。

まず、偏頭痛と、従来の頭痛 headache を明確に分けている。

「インフルエンザと風邪がまったくの別ものであるように、偏頭痛と頭痛は完全に違うのだから、薬だけで何とかどうにかなる人とそうでない人がいる」
「頭痛もちはそれが偏頭痛なのかそうでないのか自分で区別できるようになってそのサインに対処しなければならない(後年の脳梗塞などのリスクを避けるため)」
「偏頭痛は家系や遺伝の問題でもある。そこから探って諦めるのも手だての一つだ」

数々のそうした説明に、大仰でなく、強く心うたれた。

日本では「偏頭痛」という単語が通じない人も沢山いる時代だったし、実際に幼少期は、
「子どもが偏頭痛になるわけがないから、ただの風邪か、仮病だ」
と医者にさえ言われ続けていたのだ。
処方される薬は風邪薬。それに多少の効果があったかどうかは分からない。
けれど現実に半日でけろりとしているのだから「やっぱり休むほどではないのでは」となり、困っていたのが実状だった。
だって二、三時間も胃液まで吐き続けるのだから、私からすればほんとうに大問題である。

「偏頭痛になっちゃったから寝る」
と慌ててベッドに駆け込む私に、「サボってマンガ読みたいだけでしょ」
と母の監視がつくこともしょっちゅうだった。
冗談ではない。目がほとんど見えない、これから吐いたり頭痛に苦しまなければならないのかと震えているときにマンガなんて読めるはずがない。


そういった状況にずっと晒され続け、中学一年生の時にようやく「それは偏頭痛です」と診断された時は心底ほっとしたものだった。
それからMRIを撮ったり、実際に叔父がくも膜下出血を繰り返していることなどを説明したりして、「服薬の必要あり」となったが、まだ身体が出来上がっていないのでと医師が判断。副作用を案じて薬は処方はされなかった。
実際に薬をもらえるようになったのはその更に一年後で、それも確かロキソニンなどではなく、ただ「偏頭痛が起きたらすぐ飲むように」とだけ指示をされていた。

が、残念ながら目がおかしくなったらもう手遅れなのである。それに先んじて服薬することは不可能。
よってこの薬が役立ったことは恐らく一度もない。





だから留学が決まった時も、
「偏頭痛になったとき、どう説明すれば良いのだろう」
「信じてもらえるだろうか」
と、とにかく不安で仕方がなかった。


まず「偏頭痛」の英単語を調べ、留学事務所に提出する書類に、

「sufffered from migraine, about 1 or 2 times a month, recovered in a half of day just lying down but absolutely necessary of taking a rest in bed」
(月に二、三回、偏頭痛が起こる。寝てれば半日で回復するがこの半日の休養はどうしても必要である)


と記載しておいた。
これがどこまで通用するかは、もはや賭けの状況。


しかし、ホストファミリーと初めて会った時に、

「偏頭痛もちだって聞いてるけど、私もそうなのよ。どんなタイプ?」

と聞かれて、不安はずいぶん和らいだ。ホストマザーがかつて看護士であったことも幸いしたと思う。
私は拙いながらも何とか症状を伝え、特に発生初期は目がほぼ見えなくなること、だからその状態で歩いたりすることは危険であることを強調した。

「ベッドに入ったらチカチカが治まるまでは動かずにいたいんです」
「なるほど。
You are coping with your migraine as much as you can, got it.  
偏頭痛になったら寝ているのが一番だから、その後も寝ていて大丈夫よ。学校には私が連絡します。それがあなたのやり方なら、ひとまずは様子を見ましょう」

ここではじめて、 cope with your migurain と言われて、きょとんとしたことをよく憶えている。
「あなたは自分の偏頭痛のことをあなたなりに分かっているのね」
ぐらいの意味だろうと思う。


日本では、親や教師、下手をすれば医師からも、
「頭痛ぐらい我慢しなさい」
と言われがちだった偏頭痛が、ここではすんなりと受け入れられる。
休んでいていいと言われる。

実は、それだけで偏頭痛の悩みの半分ぐらいが解決されたようなものなのだが、そのときの私は気づいていなかった。
私の偏頭痛は、緊張感やストレスが、その最たる原因であったのだ。

「偏頭痛になったらどうしよう」が、偏頭痛を誘発していた。
「偏頭痛になったら?寝てればいいのよ」が、予期不安のほとんどを解かしてしまった。

すごいな、と今になっても思う。
カルチャーショックにしてはとにかく衝撃的すぎて、それ以上のことばはまだ出てこないくらいに。





それから数日後。偏頭痛が起こった。
起床時に既に視界がおかしい状態だったため、どうしようかと迷っていたら、たまたまホストマザーが私の部屋のそばを横切る足音が聞こえた。
チャンスとばかりにホストマザーを呼び、ベッドのそばまで来てもらってから現状を伝えたところ、

「わかった。そのまま寝てて。落ち着いたら起きてきなさい。偏頭痛だからって食べないでいるのは許しませんよ」

じゃあまた後で。ゆっくり寝てて。
すごいな、と、つくづくそう思った。



それから偏頭痛の頻度はやや下がりつつ、それでも一ヶ月に一回は発作を起こしていた。
私が偏頭痛を理由に学校を休む、そのことは地域の留学生サポートマネージャーに伝わり、彼女の訪問を受けたこともある。

「偏頭痛ぐらいで休むのなんておかしいわ。薬あるんでしょう。なぜ飲まないの?」

こういう人もやはりいるにはいるんだなあ、と妙な感慨にふけりつつ、

「日本にいた頃から、この薬は飲んでも効かないんです」
「日本の医者は患者に効かない薬を出すって言うの?そんなはずないでしょ?」
「でも事実、医師に相談しても変えてくれなかったんです。ないよりはマシだと思って持ってきましたし飲んでますが、効きません。休めば治りますが学校には間に合いません」
「そんなはずがないでしょう。仮病?甘え?ホームシック?正直に言いなさい」

それまで優雅に紅茶を飲んでいたホストマザーが、ふいに話に割ってはいった。カップを持つ手はそのままに。

「Pardon me, young ladies.  ミス・J、あなたは偏頭痛になったことがあるかしら」
「ありませんね。健康には気を配っていますから」
「なら分からないのも仕方がないわ。でもこの家で私のルールに背くのはやめてちょうだい」
「ルール?」
「病人を労ることです。それが私のルールなの」
「でも仮病は病気じゃないでしょう。まあ、また別の病気かもしれないけど」

ホストマザーはそこでティーカップをソーサーに置いた。茶器同士がぶつかる鋭い音が鳴った。

She is tyring to cope with her own prroblem honestly, also harder she is getting to, that is what I DO understand very well.
(彼女は自分の問題を把握してるし、より深く心得ようともしている。そのことは私がそばで見ていてよく分かっています)
ところでそろそろ夕食の支度をする時間なの」
「そう、早いんですね。うちはあと二時間は先よ。でないと夜中におなかが空いちゃう」

呆気に取られている間にマネージャーは手帳をハンドバッグにしまい、また今度ね、と私の頬にキスをしようとした。それをとっさにかわしてしまった時、ホストマザーと目が合ったが、彼女は何も言わずにテーブルを片づけはじめた。
マネージャーはホストマザーに聞こえない程度のささやきで罵り、帰っていった。
bloody coping.
それが彼女の捨て台詞だった。





学校の国語で出されたテキストでも、主に病人について話す場面で、cope with の表現は多く出ていた気がする。
たとえば、喘息を持っている子が、旅行先などで発作を起こし計画などを台無しにしてしまったとき。

「But just see how he copes with his disease, though he even never has to try right now - why don't you awake your imagination of?  It could long for ever and ever as he lives.」
(この子は喘息に向き合い続けている。考えてもみてほしい、一生かけても治らないかもしれないものに、彼は挑みつづけているのだ)

といったふうに。





日本では「克服しなさい」と端的に言われていることが、イギリスでは、

「一生のお付き合いになるのなら、無理に縁を切ろうとするよりも、適切な付き合い方を考えた方が良い」

というスタンスを取る人の方が圧倒的に多い。
地区マネージャーさんは立場上、留学生を学校に通わせなければならないから、少し気むずかしくもなったのだろう。
しかし、いったん責務から離れれば、
「病人は休ませろ」
が当たり前になる。
同時に、
「ただし病人もそれなりの対策をとること」
が必須とされる。





Do you cope with your own problem well for these last weeks?
(ここのところ問題に放り出してるように見えるんだけど、どうなの?)

と聞かれたら、それは「自分の問題と真剣に向き合ってない」と捉えられているサインだ。
たとえば偏頭痛はチョコレートやチーズの摂取量、不規則な睡眠、目の酷使を控えなければならないと一般に言われている。
私の生活ぶりを見てホストマザーが「偏頭痛と関わりがなくてもこれはいけない」と思ったら、そうやって遠まわしに警告をするのだ。

乗り越えられないことは、それはそれとして受け入れていい。
だけど抵抗するなとは言っていない。努力はしなさい。

イギリス人のすべてがそうではないにせよ、ホストマザーのそんな声かけが、私はありがたかった。





一面では、偏頭痛は死にすぐさま直結することではないから、じっくりやっていきなさいということでもあっただろう。
緊急性が高ければ当然、もっと急かされるだろうし、何より自ら行動しないことを容赦なく責められもする。


自分で自分の問題を見きわめず、ただ他人の助力をじっと待っているだけの人を、どうにかしようとは思わない。


ホストマザーのそういったぴしりとした主張に背中を押されて、私はあれから二十五年が経とうとしている今なお、cope with something を心がけようとしている。
そして、それは経過のことなので、なるべく「まだ途中です」と伝わるように工夫もするが、にも関わらず答えが出るのを待たないで決めつけたり手出しをしてくる人は無視してしまっていい。
そのことも意識しようとしている。

後者はかなり難題だが、それも cope with のひとつだと思うことでちょっとずつ乗り切ってきている。





最近、睡眠の調子がちょっとよろしくなかった。
数年ほど使い続けた枕がどうやら寿命ぎみらしい。

実は偏頭痛もちにおいて枕はかなり重要である。
これもイギリスで体験したことなのだが、イギリスでは偏頭痛の発作が起きても回復までの時間が大幅に短縮されたのだ。

何故だろうと考えたら、通常、イギリスの家庭ではシングルベッドでも枕は二つ。
どちらもふっくらしている。
枕をふたつ重ねて、ほとんど埋もれるようにしていると、首の傾斜が良い具合になるのか、頭痛をほぼ感じないことが分かった。

頭痛がなければ嘔吐も起こらない。
実際、留学後、偏頭痛になっても吐くことはほぼなくなった。一、二度あったかなかったかくらい。

目のチカチカだけはどうしようもないが、偏頭痛全体の回復まで半日かかっていたところが、三十分で済むのは大発見であった。
というわけで、帰国してからも枕はふっくらしたものを二つ使い、偏頭痛発生時に備えている。

偏頭痛に限らず、枕の役割は多岐に渡るようで、ひどい不眠も枕を変えたら改善された例も聞く。
寝ている間は努力のしようがないのだから、睡眠時の環境整備をこそ怠ってはならない。

枕のへたりは偏頭痛時に困ったことになるし、睡眠状態の悪化は偏頭痛の一因になり得る。


そんなことを考えながら、Amazonのプライムセールで枕を新調した。
昨夜、それを使った結果をここに報告する。

十五時間、連続睡眠。

これで二千円……何という価格破壊……ていうか寝すぎ……。
正確には、猫のごはんのために二、三度ほど起きて寝なおしたのだが、それだけ寝て起きても身体が凝っている感触もない。
非常に優秀な枕である。ありがとうプライムセール。


だが、別の視点から考えてみよう。
いくら枕が素晴らしいからと言って十五時間も寝てしまうのは、何か別に問題があるのかもしれない。

最近、変わったことはなかったか?
食生活はどうか。
普段の過ごし方はどうか。
昨日の一日を思い起こして、何か特別なことはなかったか。

もちろん、枕を変えて初日ということもあるから、ちょっと様子見をするのも大事である。
二、三日たっても十五時間ぐらい寝てしまうなら慎重になった方が良い。
そのために今から思い当たることを数えておいて損はないだろう。


あとは、実はこの五日ぐらい偏頭痛が頻発している。
枕を変えることでそれも改善されれば、と期待したのだが、昨夜も発作が出てしまい、覚醒時にさっさとロキソニンを飲んで再び寝た。痛みは感じなかったから、その点でもこの枕は合格と言える。

だが、そもそも偏頭痛が数日間、立て続けに起こる原因のほうが解決されていない。

何だろうなあ。
いちおう女なので周期的なことでもあるのかもしれないし、季節も関係するだろうし、自分では気づかない何かがあるのかもしれない。

と、年を重ねると cope with もどんどん枝分かれしていく。





多くの問題は一生ものだ。
けれども、解決案が増えるなら、それは立派な cope with だ。
諦めてはいないことの証明は多いほうが良い。たとえ目に見えるものでなくても。



これを書いている間に cope with の、ほどよい訳が見つかれば、と願っていたのだが、どうにもこうにも cope with は cope with のままのようだ。
仕方がないので cope with と一生 cope with していくことになりそうである。

ところでこんなに寝ちゃって今夜は眠れるのだろうか。この枕め。cope with してくれるわと鼻息を荒くしつつ、cope with の手段の一つであった枕とも cope with しなければならないややこしい現状に、今、私は置かれている。


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