「生きるために生きる」とはなにか

 山の魅力とはなんだろう。山の魅力とは、筆舌に尽くしがたいほど多様であり、かつ深いものである。山の魅力は多くの方法で説明される。山の魅力とは、感性を働かせること・予測不可能性の連続・現実逃避・日常との対比・・・であると。しかし結果として、山にハマる者とハマらない者の二種類が存在する。
 山という環境は、長くいるとだんだんと日常へと変化していく。山の新鮮な魅力は色褪せていく。その変化に適応した者が山にハマる部類なのだ、と私は考えている。(高い山を目指したり、百名山を制覇したり、高山植物について知識を蓄えることによって、次々と未知なる領域を切り拓いていく開拓型もいるのだが、そうでない限り、)山にハマっていく者は日常に適応し、日常を愉しめるようになってくる。私もその一人である。元来、山を歩くということは目的の乏しい行為である。短期間であっても山で暮らし、それを愉しむとき、そこには「生きるために生きる」という不思議な感覚が生まれている。生活することそれ自体がその瞬間の生きる意味になるのである。

 近現代人は、端的に言えば「楽しむために生きる」ということをしている。楽しいという情動を持つ事柄を目的にして活動しているのである。楽しい週末を生きがいにして仕事をしているという人も多いのではないだろうか。「楽しい」という情動は、娯楽などの非日常によって生み出される情動であり、永続性がない。よって、日常をカットダウンし、非日常を最大化することが目指されることになる。そのため、たとえばファストフードや加工済み食品の需要が増える。
 それに対して、私は「生きるために生きる」ということに光をあてたい。生きるために生きるとき、つまり日常生活が生きる意味になるときに感じる、面倒でつまらないはずの日常生活への、それでも豊かで愛おしい感情を「愉しさ」と呼ぶことにしよう。私は、生きるために生き、日常を犠牲ととらえずに愉しむことで、日常・非日常を含めた生活がもっと豊かで健全なものになるのではないかと思う。非日常を頑張って多くしようとしなくても幸せになれるのではないか、と思うのだ。

 「生きるために生きる」ということは、人類が先史から前近代までやってきた営みではないだろうか。もちろん、「生きるために生きる」ことに価値を感じていたかどうかはわからない。そうせざるをえなかったのだ。だが、自分が生きるための活動に時間を費やすことに幸せを感じていたかもしれない。いつから「楽しむ」という情動だけが称賛されるようになったのだろう。いつから人生は楽しんだ者勝ちになったのだろう。

 「生きるために生きる」という暮らし方をここで取り上げたのは、絶対的な存在と化している「楽しむために生きる」という暮らし方を相対化するために過ぎない。もっと多くの暮らし方があってよい。おそらく健全な暮らし方はその人・その環境によっても異なる。いろいろな暮らし方を発明・発見すれば、人々が自由に暮らし方を選択できるようになるはずだ。そのために、私はいろいろな暮らし方を訪ねてみたいと思う。手始めに、暮らしを研究するサークルでも作ってみようと思った。

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