俳句の良さ

35歳になった。孔子でいえば30で而立、40で不惑なので、而惑か不立のどっちかくらいだろう。不立はなんかいやだな。力強く立っていたいと思うお年頃だ。凄十。

子供のころから国語の成績はいい方だった。ただ、古典の良さはいまいちわからなかった。ルールに当てはめて、誰かが欲しがっていそうな答えを出すのが得意な、大人に好かれる嫌な子供だった。その精神性は今もあまり変わっていない。

そんな自分だったが、数年前から俳句の良さがわかってくるようになった。というか、俳句が何なのかがようやく分かったのだ。多分、以下はどこかに書き古されたことなのだろうけれど、自分の実感を伴って書いてみる。

きっかけは遊んでいたクイズアプリの「『目には青葉 山ほととぎす 初鰹』の作者は誰?」という問題。幾度となく目にした俳句だけれど、すっかり忘れていた。山口素堂、という答えとともに、そういえばこの句はなぜこんなに人口に膾炙しているのだろう、と疑問を持った。そしてその疑問と同時に、自分の頭の中に、これらの情景がすっかりと浮かんでいることに気付いた。

そうか、なるほど、俳句は芸術写真なのか。山口素堂は松尾芭蕉と同時期の江戸初期の人間(のはず)で、それは貴族的なたしなみであった和歌に対して、庶民の風俗としての俳諧、そしてその中での発句(≒俳句)の芸術性が認識され始めたころ(のはず)である。(おぼろげな知識。)

和歌は、恋の歌であったり、序詞・掛詞などのルールを適用しながら、感情の機微や歴史的・地理的ななモチーフを歌いこむものだった。アートと対比させるなら、まさに絵画だ。描法を駆使しつつ、主題とする神話的テーマであったり、自身の感情を表現する。

一方で、写真はコンセプトを自分で構成し、切り取ることはできるが、対象そのものを変質させることはできない。対象に自分の感情を織り込ませることは難しく(だからこそそれに成功した写真は凄いものがある)、また技巧も絵画よりは(テクノロジー的に)限られている。

俳句も同じく、和歌(長歌と比べればさらに)と比較してはるかに少ない文字数で、対象を切り取ることを志向している。五七五でどの対象をどう切り取って相手に伝えるのか。それが求められる芸術なのだ。だからこそ、最高に素朴に三つの感性を刺激するこの句は、俳句の黎明期における名作として、語り継がれているのだろう。

…ということを長々と書いたが、自分が一番好きなのは自由律俳句だったりする。年賀状にはここ数年自作の自由律俳句を書いて送りつけている。きっと嫌がられていることだろう。ということで、その句を記して終わる。

 ねずみも偉さうにしている (2020年元日)

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