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ゲームの世界の中でなら、僕は悪にでもなる【2020年5月フリーテーマ】

※この記事はまだあまり上手くまとまっていないテーマについて、アレコレ思い悩みつつ書き連ねたものです。そのため、有料記事に設定していますが、無料で最後まで読むことができます。いずれキチンと考えを整理して、再挑戦できたらとは思っていますが……。

ゲームの「自由度が高い」という言い方は、自分も仕事の原稿でつい使ってしまいがちなフレーズではあるけれど、これは非常に曖昧な言い回しだ。

一口に自由度と言っても、その言葉が指し示す要素はたくさんある。移動可能な範囲の自由度もあるし、攻略手段の自由度だってある。文章だけで進行するテキストアドベンチャーゲームでも、多彩な分岐によって展開が千変万化すれば、それは「自由度が高い」と呼べるだろう。

ただ、自由度を「なんでもできること」とストレートに捉えたならば、個人的に自由度の高さをいちばん感じるのは、倫理面での自由度の高さだと思う。要するに、現実の日常世界では決して許されない「悪いこと」ができるということだ。

そのことを痛感したのは、PS4で『シェンムーI・II』をプレイしていた時だ。『シェンムー』というゲームはみなさんもご存じのとおり、ゲームの中にリアルな3Dの日常空間を作り上げて、電話をかけたりタンスを開けたりガチャガチャを回したりと、およそメインストーリーとは関係ないような行動まで自由にできることを目指して作られた作品だ。自分も約20年前にプレイした時は、その行動のスケールに驚いたのを覚えている。

しかし20年経って、リマスター版の『シェンムーI・II』を改めてプレイすると、思っていたよりも不自由というか、どこか堅苦しさを感じてしまうのだ。それは現在のオープンワールドのゲームに比べて操作面がまだ未整理だからというのもあるけれど、最大の理由は主人公である芭月涼のキャラクターにある。

芭月涼は常に、武道家としての倫理観に基づいて行動する。街で出会った人にはきちんと挨拶を交わし、自分や他人の身を守る以外では暴力を振るわない。もちろん、物やお金を盗むといったことは決してない(毎日お小遣いは受け取るが)。そして、こうした主人公の倫理観を外れた行動は、たとえプレイヤーがやろうとしてもできない。それは芭月涼という人物のロールプレイとしては正しいのだけれども、すでに『シェンムー』以後のオープンワールドゲームをすでに体験してしまっている人間としては、やっぱり不自由さを感じてしまうのだ。

芭月涼バストアップ

▲PS4版『シェンムーI・II』より。

『シェンムーII』の発売からしばらく経って、『GTA III』を初めてプレイした時、自分はこのゲームを「悪の『シェンムー』」と呼んでいた(笑)。それはまだオープンワールドが概念として定着する以前に、このゲームシステムを端的に説明できるのが『シェンムー』だったから、というのもある。ただ、『シェンムー』が意識しつつもあえて枷をはめていた自由度から、一般的な社会常識の枠を取り払い、「犯罪行為もできる」という上乗せがあるのは、やはり相当なインパクトだった。

『GTA III』以降、『GTA』が世界最大のゲームシリーズになったこと、そして『GTA III』を基本のスタイルとするオープンワールド形式のゲームが20年近く経った今でも広く受け入れられていることの背景には、あまり大きな声では言いづらいけれど、この「現実では許されないことができる」というのが大きかったんだと思う。だって、リアルな街並みの中で車をぶつけたり、派手な銃撃戦を繰り広げて通行人を巻き込んだりするのって、やっぱり楽しいよね? 

(この時代をリアルタイムに生きてきた洋ゲーファンとしてフォローしておくと、『GTA III』以前にも『CARMAGEDDON』『POSTAL』といった、「悪いこと」のできるゲームは存在していた。しかし、それらのゲームがある意味「悪いこと」そのものを目的にしていたのに対して、『GTA III』はストーリーやアクションといった普通のゲームとしての作り込みの中で「悪いこと」“も”できた、というのがスゴかったのだと思う)

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『GTAIII』を初めてプレイしたのは、日本版が発売されるとは思わなかった頃に買ったPC版だけど、今この瞬間にすぐ取り出せるのは、初代Xbox版の「『GTA』ダブルパック」だったりします(記事タイトルの写真は、このパッケージを開いた内側の部分)。

もちろん自分としては、現実世界で暴力行為や犯罪行為を他人に薦めているわけでもなければ、自分でやりたいとも思っていない。ゲームの世界の中だからこそ、そうした倫理的に許されない行動であっても実行できるのだ。なぜならそれこそが、現実とは一線を画しているゲームの、さらに言えばフィクションのメリットなのだから。

『GTA III』以降のオープンワールドゲームの多くは、『GTA』的なクライムアクションに限らずファンタジーやSFといったジャンルも含めて、倫理的な制約からの解放を「自由度の高さ」として取り込んでいると思う。

それだけでなく、『The Elder Scrolls』シリーズや『Fallout』シリーズのように、社会常識的な解決法と反社会的な解決法のどちらも用意しておいて、プレイヤー自身に選択させることで倫理的な葛藤を促すというストーリーテリングすら可能になっている。そういう意味では「悪いこと“も”できる」という自由度の高さが、ゲームの表現を一歩先に押し進めたと、個人的にはそう思っている。

自分が今、注目しているのは、2020年9月に発売される『サイバーパンク2077』が、この倫理的な自由度の高さにどこまでチャレンジしてくるか、という点だ。もともとサイバーパンクというSFジャンル自体、肉体改造や精神の電子化といったガジェットを通じて「人間とは何か」という命題に挑んでいるものなので、真面目にサイバーパンクを追求するならば、そこに倫理的葛藤が関わってくるのは必然なので。まぁ、今のところ明かされている情報の時点で、日本版はいろいろ規制されそうだけど……。

先に書いたように、『GTA III』以降のオープンワールドゲームは、「悪いこともできる」ことを自由度の高さとして発展してきたけれど、そうしたゲームが当たり前になった時代にプレイする『シェンムーI・II』は面白いことに、主人公が武道家としての倫理観に基づいて行動する「不自由さ」が逆に新鮮だった。20年前は気づかなかったけれど、これはこれで『シェンムー』というゲームが持っている、唯一無二の美徳だと思う。


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