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書くこととは、浸ることである

回想

昔、高校の教科書に掲載されていた梶井基次郎の「檸檬れもん」が好きだった。今ではほとんど内容も忘れてしまったが、その代名詞とも言える「見すぼらしくて美しいもの」という言葉はよく覚えている。小説の中では壊れかかった街のような一般的には美しくはないものに惹かれた心境が書かれている。

高校時代スポーツ推薦で大学に行こうと決めていた僕は、クラスメイトが受験勉強を終える時刻まで汗を流していることがあった。その帰り道、暗がりを照らす国道沿いのセメント工場の人工的な明かりによく心惹かれていた。

母校を代表する部活、一見リア充な体育会の世界。それなのに僕の人生の中では十指に入るくらいに憂鬱を感じていた時期でもある。小説の中で「私」が心境とともに語るその言葉には大変に共感し、このような感覚が自分だけのものではないことを知って嬉しくなった。

物語に浸る

この回想のような私小説的な文体は、子供のようにわがままを言えず、誰かに愚痴をこぼすこともできないような内向的な大人にとって、感情を表現する手法としてとても便利なものだ。

受け入れがたいような事実、どうしようもないような悩み、そこに物語を作り上げて悲劇のヒーロー・ヒロインを演じることは、主観的な感情をその主人公に押し付け、一時 いっとき現実世界から逃避できる隠れみののようなものだ。これは実際、世の中にたくさん溢れている。

メンヘラ女子

タイムラインではいつものメンヘラ女子が、得意の自撮りを敢えて載せずに意味深なつぶやきをしている。アイコンはいつもの地雷メイクではなく、心の闇とでも言いたげな真っ黒なGIFに変更されている。よほど気づいてほしいのだろう。彼女もまた「可愛そうな私」「病んでる私」に浸っているのだ。

しかし、そんなルーティンを目撃するのにも慣れた。浸ることは一時的に現実から逃れることができるものの、現実世界の方では一向に何も好転していない。かわいい女子ならワンチャン狙いのクズ男か、夢見る童貞男子に慰めてもらえるだろう。でもそれだけである。そうしてまた繰り返す。

意識高い系

ルノアールで聞こえてくる自分語り。意識高い系の彼はマルチ商法のチームのリーダーに熱く語っている。「良い大学に入って良い会社に入る。そんなレールに乗った人生なんてつまらない。だからあえて人と違う道に進んで、個人で稼ぎたいと思った。あえて泥臭く生きると決めた。」と。

清々すがすがしいほど物語に浸っている。「あえて、あえて、」と、彼が他の誰とも違う感性の持ち主であることを主張する一方で、不躾ぶしつけな第三者はこう思う。「偏差値足りなかっただけじゃないのか?」。理想と現実の間に溝があるとき、物語はただ己のみを納得させる。

自分

高校時代、友人には見栄を張り、親には心配をさせないため、誰にも相談できずに悩むことがあった。家路に広がるセメント工場の光は、僕の頭の中に物語を膨らませることを掻き立てて、その空虚な空想はよく僕を慰めた。

それから少しずつ大人になった。未熟さゆえに意味深な言葉を書きなぐったこともあったし、理想だけの夢を語ったこともあった。そして今もこうして駄文を書き連ねている。タイムラインのメンヘラ女子も、ルノアールの意識高い系も、実は僕自身の写し鏡かもしれない。

しかしこれは極めて痛々しい行為でもある。もし文才でもあれば文学作品に昇華もできるだろう。しかし、大概は中学生が書いたライトノベルのまねごと程度のクオリティにしかならない。黒歴史は何年もかけて、そして今も作り上げられている。

書くことはやめられない

承認欲求、愚痴、考察、批判、あるいは焦燥や嫌悪…。人が筆をる理由も様々だ。それが黒歴史だとしても文学作品だとしても、脳内にゴチャゴチャに積み上げられた言葉を並び替えて文章にすることは、とても心地がよい。

書くこととは、浸ることである。浸って、逃げて、自分を見つめ直すことである。

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