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生きづらさと共に!NO.44違う色が真ん中で淡くにじみ、調和するということ。

中学一年生で吃音症の娘は、最近良く、学校のクラスのことや、部活のことを話してくるようになった。

中学に入学する時は色々心配もしたが、過去も、未来も諦め、自分を受け容れ、なるべく今を生きる!ということを心掛けてきた私は、気持ちは軽くなっていた。

吃音に対しては、入学の前から中学校に電話をかけ、担任の先生とも話す時間を設けてもらうよにお願いし、入学式が終わった後、担任の先生と副担任の先生と私の3人で、15分くらい話をした。

1学期、もちろん何の問題もなかったわけではないが、遅刻や早退を数回したのだけど、どれも病院へ行くためという理由だった。

私は、娘がもし、学校には行きたくない、とどうしても考えが切り替わらなかった場合は、学校へは行かない選択を考えていた。
今もその考えは変わらない。

吃音が気になる教科は、担任の先生と話し、教科の先生に伝えていただき、どうにか、配慮的なことをお願いした形になる。

例えば、理科の時間、席の順番で教科書を読ませていたらしいのだけど、吃音のことをお願いしてからは、『読みたい人〜』と、軽い雰囲気にしてくださったみたいだ。
英語の音読でも、あてられなくなった。
吃音のある娘は発表が苦手だから、それは娘にとって都合が良いことである。

しかし、最近、国語の音読があたっているみたいな話を聞き、ちょっと本人が気にしていたので、一応、国語の先生にお願いをした。

お願いしたと言うより、先生から、すみませんね〜なんて言われてしまったけど、音読は短い子は短いし、長い子は長い、こういう時に限って、娘が読むところは長かったりする。
皆んなに、娘の吃音の件は話してあるので、特に気にしなければ、それはそれで良い話なのかもしれないが、娘はこれ以上頑張りすぎたら、どこかで気持ちが塞ぎ込むのかもしれないと言うより、周りの反応が気になるのだと思う。

しかし、私は娘を信じたい気持ちも半分はある。
小学生の時は配慮に配慮を重ねて、そのおかげで学校に行けたようなものかもしれない。
それが良かったのか悪かったのか答えは出ないが、選んだ道が正解ならば、これは正解だ。

あれほど心配していた娘の吃音だけど、娘もさほど気にしているようには見えない。
恐らく、気持ちがバドミントンに傾いているのだと思う。

側で見ていると、YouTubeや、Nintendo Switcのゲームと、もしかして部活のバドミントンが娘の中でも並んできたのかもしれない。
本人に確認したわけではないからわからないが、
何よりもYouTube、ゲームが1番ではなくなってきたようにも思う。

娘は割と、クラスの面白い男の子のことや、それに対する女の子の反応などをとても楽しく話てくる。
今では、火曜日と金曜日の、部活から小学生のバドミントンクラブへの切り替わりの時に、捕食や飲み物を持って行くのだけど、女子の色々な話を娘から聴くと、『モグモグタイム』がとても楽しいことが分かる。
良いな〜と聴いていて思う。
そのあたりはごくごく普通の中学生である。

吃音、ADHD、自閉症などのことを考えた時、それは娘にとって生きづらいのかもしれない。
吃音以外の診断は下りず、グレーゾーンだった娘は、この吃音、ADHD、自閉症の気質的なものは上がっていた。
しかしこの割合的なものも、恐らく、ずっと同じではなく、娘の心と体の成長と共に変わっていくのだと思う。

一昔前の息子たち2人がバドミントンをしていた頃に比べると、バドミントンをする小学生の低学年からとても人数が増えていて、活気があり、楽しんでやっている雰囲気が良いなぁと思いながら昨日は見学していた。

やはり、介護と子育ての両立は難しく、捕食を体育館に持っていき、帰ってきて、義母にご飯を食べさせて、また、体育館に行く。
今までの生活スタイルを変えざるを得ない。

家に一度帰ってきた時にお風呂のスイッチを入れよう!そう思っていたのに、昨日、バドミントンから帰って来て娘がお風呂に入ろうとしたら『お母さん〜お風呂沸いてないよ〜』だった。
わ〜やってしまった!

その前日、朝からバタバタと娘を学校に連れて行こうとしていて、『ラケットもって行っとくね』と、言ったにも関わらず、何かに気を取られ、すっかり忘れて車に乗ってしまった。

後から娘が、『お母さん、ラケット忘れてる』と言われ、結局娘がラケットを持って車に乗り込む。

そして、お風呂を沸かしそびれてからは、『お母さんをあてにしないでね』と言うと、娘は『もう、お母さん、あてにしてないよ』と言われ、ショック!とはならなかった。 

私はどちらかと言うと、あてにされる方だ。
だけど、最近抜けていることが多い私である。
忙しすぎると忘れる、少々年齢的に忘れっぽくなったのも事実であるが…

あてにされるのは良いような悪いような、あてにされないのも良いなと思ってしまった。
気は楽である。

生きづらさを抱える人と生きづらさを抱えていない人、皆んなが生きづらさは大なり小なり抱えているらしいが、生きづらさなどを抱えている人は、理解や、寄り添ってもらうことを求めているのだと思う。

人は色々、みんなが違っているが、そんな人たちの色々な違う色が真ん中で淡くにじんで、調和する、そんな生きやすい世の中になると良いなぁと、心から思う。


台風14号が近づいているが、備えなど、出来ることはやったつもりだ。
出来るだけ被害の少ないことを願いたい。

今日も最後までお読みいただき、心よりありがとうございます^ ^




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