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ノートの中の私

noteはスマホで書いている。
エッセイも、小説も。
社食の隅で書いたり、帰宅前の車の中で書いたり、朝方ベッドの中で書いたりするため、そしてそれは大抵10分程度の隙間時間であるため、一番効率が良いのがスマホなのだ。

しかしたまには、パソコンで書いてみたくなる。静かに座って、珈琲を横に置いたりなどして。
たまにはノートを広げてみたくなる。ペンを並べて、プロットを組み始めたりなどして。

要は、書く時間というものを確保して向き合いたい。隙間時間をぱらぱらと充てがうのではなくて。

ーーー

振り返ってみると、私の手の届く所にはいつもノートがあって、多感な時期の色々を吸い込んでくれていた。

どうしようもなくクラスメイトに焦がれるとき、命の灯火がか細く消え入りそうになるとき、やり場のない嫉妬にじんじんと焼かれるとき、私はノートを開いた。時に太く荒々しく、時に糸を丁寧に紡ぐように、書き続けた。
たまに私は、それらをただ眺めた。昨日の言葉に今夜の私が救われ、今夜の言葉に明日の私が寄りかかる。そうやってなんとか私を繋いでいったのだった。
そんな思春期だった。
それがわたしにとってのノートだった。

高校一年の時に家が焼けた。焦げ付き、ずぶ濡れになった制服も携帯電話もすぐに諦めがついたが、書き溜めたノートだけは置き去りに出来なかった。抱え上げたら滴り落ちた黒い雫。
乾きごわつき、煤けて黒ずんだそれらを新居に持ち込んだ。18で一人暮らしを始めた際も、結婚して引っ越した際も、必ず連れていった。
先日、懐かしさに襲われて久々にめくってみたら、あまりの拙さに驚いた。とてつもなく幼かったのだ。それでも不思議と恥ずかしいとは思わなかった。
暗く深い場所をねじ曲がり続いていく出口の見えない日々の中、私を繋ぎ生かしてくれた言葉たちを、恥ずかしいとは思わなかった。

ーーー

大人になった私は、隙間時間を寄せ集め、スマホの画面をなぞって言葉を書き留める。
たまにその言葉たちを、ワンタップで外の世界へ飛ばしながら。 
夜通しすがるように書いていたあの少女はその軽々しさに閉口するかも知れない。だから大人は嫌いなんだと嘆くかも知れない。

私は十代の私を見つめる。黒ずみごわついたこのノートの中に生きる私を見つめる。
私は何も変わっていない。
溜まって膿んだ感情を書き連ねたり、湧いて膨らむ心情を紡いだりして、時にそれらに救われたり寄りかかったりして、なんとか生きてる、あの頃のままだ。

きっと私は何十年後も変わらずに、言葉を繋ぎ私を繋いで生きていく。
ノートの中に生きる幼く必死な私と、今日を生きる未熟で必死な私とを繋いで、生きていく。

私が思いを綴ってきたノート達。この他にも旅先で買ったものが多い。(焼け跡から連れ出したノート達は載せず、そっとしておくことにしました)


ニツカさんのこちらのノートnote、素敵だなぁと思って私も書いてみました。ノートと向き合う機会を与えてくださりありがとうございました。









ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!