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同居人

「人の気配、って分かるよね。」

 ランチタイム、同僚がポロッと言ったその一言が、矢のようにスーと向かってきて、胸の奥の的にトン、と刺さった。その小さく空いた点の奥から、ある日の鮮明な情景が一気に飛び出してきて、私は箸を止めた。クリーム色した簡素なシャワー室、小さな浴槽、樹脂の天井に四角く型どられた蓋。その四角が見えなくなるほどに四方八方張り硬められたガムテープ。
  
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 初めての一人暮らしだった。投げ捨てるように故郷を飛び出して辿り着いたその地は、故郷と何ら変わらぬ田舎町だったけど、知り合いが一人もいない、というだけで私の心は満ち足りた。
 3階建てのアパートは築25年ほどだったろうか。1階にレンタルビデオ屋と婦人服屋が2店舗入り、道路の向こう側にはスーパーがあった。それだけで18の私には十分だった。夜遅くに彼氏とビデオを借りに降りて、週末はスーパーでバイトした。それが私の世界だった。満ち足りていた。
 私の部屋は3階の一室で、窓の外には田んぼが広がり、日当たり良好、カーテンを開けると白い天井、白い壁、白いベッド、白いカーペットが明るく咲いた。2階にも3階にも大学生が男子も女子もずらりと住んでいて、私の小さな自慢は、お向かいさんがたまにファッション誌に載る美人さんなことだった。偶然同時に玄関の扉を開けたりすると、「あっ、こんにちはっ…」と、その人形のような瞳に勝手にひとり照れたりした。

 毎週土日、8時から13時まで、私は向かいのスーパーで寿司を握った。引っ越し早々、「バイトさせて下さい」と駆け込んだお客様カウンターで「空きが出たらご連絡しますよ」と言われ、携帯番号を置いてきた。そして空きが出たのが寿司部門だった。
 だいぶ経って、一人暮らしにも大学にも寿司づくりにも慣れてきた頃だった。13時に終わるバイトが、「業者の手違いでシャリが半数しか届かなかった」という理由で、数時間早くに終わった。そのままアパートへ帰り、鍵を開け、ドアを開け玄関に入り、ガッチャン、とドアを締めたときだった。毎日繰り返されるそんな普段の行為、それだけだった。何の物音がした訳でもない。何かを目にした訳でもない。ただはっきりと、しっかりと、かなりの確信をもって思ったのだ、「あ。誰か居る。」と。

 そこから私は足音を潜めながら、一つ一つ開けられる場所を開けていった。玄関から上がり、シャワー室、トイレ、リビング、クローゼット、ベッドの下も覗き込みながら、最後は窓を開けベランダも見た。
 誰も居なかった。何処にも居なかった。それなのに、なぜこんなにも人の気配が充満しているのか。確かに居る。絶対居る。もしくは居た。私はベランダからまた一つ一つ開けた場所を確認しながら玄関まで戻ろうと思った。ベランダ、ベッド下、クローゼットの奥、リビング全体を見回してから、トイレ、シャワー室。

居ない。何故。何故居ないのか。素通りできない違和感が確かに此処にあるというのに。困惑しながら目線が宙を仰いだときだった。シャワー室の天井、その四角く型どられた小さな蓋が大幅にずれて天井裏の漆黒の闇が見えていたのだった。背筋は凍る。文字通り、凍るのだ。脊髄を流れる髄液が恐怖に凍ると全身が硬直し、眼球すら動かせなくなる。部屋に入ろうとしていたのか、部屋から出ていこうとしていたのか、とにかくずれようのない蓋が大きくずらされていた。このずれた蓋の存在に、私が手にとるように感じた“気配”が幾重にも絡みつき、誰かが侵入したという想像は、みるみる事実と化していった。

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 私はしばらくその歪な闇を凝視しているだけだったが、ふと我に返るとリビングに小走りで直行しガムテープを引っ掴んで踏み台も引っ掴んでその闇の真下に戻ってきた。そして何重にも何重にも四方八方あらゆる角度から隙間という隙間全てを覆い尽くし、それでも全く足りないとでも言うようにさらにガムテープを被せに被せまくった。
 これほどまでに闇を封印しても不思議なほどに気味の悪さは消えなかった。何故なら、そう、その人物が何かしらの方法を経てベランダや玄関から侵入していたとすれば、そして通常13時に帰宅するはずの私が早々に帰宅したのに驚き、シャワー室の蓋から屋根裏に逃げ込んだのだとすれば、私はその人の唯一の出入り口を封鎖したことになる。まだその人物は、この頭のすぐ上の屋根裏に居続けていることになるのだ。

 私はまたリビングの戸棚まで駆けていくとすぐに、大家の電話番号を見つけ出した。私の困惑ぶりに、近所の大家が駆けつけてくれた。
 大家はすぐに業者を呼び、屋根裏を隅々まで点検してくれたのだが、そんな人間は見つからなかった。屋根裏から外へ出る出口などなく、もし屋根裏に逃げ込んだのだとすればまだそこに居るはずなのに誰も居ない。ということは、そんな人は最初から居なかったのだよ、大丈夫、安心しなさいと言われた。

 十代の小娘が、狂言で大人達を奔走させた図が出来上がってしまった。しかし、少しも悪びれず、むき出しになった四角形の上にまたガチガチにガムテープを重ね貼りしたのは、あの強烈な違和感をどうしても無視することが出来なかったからだ。

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 アパートを引き払った。ちょうど女友達とハウスシェアをしようと話が出ていた時だったし、あのガムテープは剥がせずにいたし、友達のアパートに泊めてもらったりしていたのだから、それは普通の流れだった。
 新居で生活し、バイトをし、卒業して東京に出て、働き、遊び、旅に出て、結婚し子供が産まれ、再就職したオフィスでのランチタイムだった。

「人の気配、って分かるよね。」
「分かる分かる。私さ、大学生の頃…」

私はあの得体の知れないくっきりと浮き出た気配を、目に見えずともまとわりついて離れないあの違和感を思い出しながら、あの日の話をした。

「でもね、屋根裏には誰も居なかったよ、安心しなさいって言われたんだよ。」
「ぅわぁ…。でも良かったじゃん…、誰もいなくて。」
「そうだよ、屋根裏で男が見つかったらさ…ねぇ、気持ち悪くてそれこそトラウマになっちゃう。」

そうだね、あれは勘違いだったと思うようにするよ、もう十何年も前の話だしね、と切り替えながら箸をまた持ち直すと、それは命を吹き返したかのようにまた食材を運び始めた。

「え、待って。」

テーブルの上にぽとりと落とされた声にまた箸が止まる。同僚は落ちていた視線をゆっくりと上げ、私の目にしっかりと合わせた。

「その、シャワー室の天井の蓋、どの部屋にも付いてるんだよね?」

「うん、そうだけど?」

「てことは、同じ階の誰かが、自分のシャワー室の蓋を上げて屋根裏に入って、別の誰かのシャワー室の蓋を開けたら…」

カチッ、カチッ、と時計の秒針が2つ進んで、悲鳴、叫び声がスタッフルームを駆け巡った。さほど広くないこの部屋の、壁や床や天井に当たりぶつかり跳ね返りながら。

 

 そう、犯人は同じ階に住む大学生だったのだ。犯人は外から建物に侵入してきた訳ではなく、元々建物内にいたのだ。こんにちは、などと会釈し合う相手だったのだ。鍵など掛けたところで何の防御線も張れていなかったのだ。

 その人は、一体何度、私の部屋を訪れていたのだろうか。私の部屋で何をしていたのだろうか。金が盗まれた訳でもなく、物が無くなった訳でもなく、それが一番不気味なのだった。バイトシフトや講義スケジュールなどをある程度把握していて、私の留守中に入っていたのだろうか。


まだ悲鳴の余韻が漂う部屋の中に、同僚の押し殺したような低い声が響いた。

「…夜寝てる時だってさ、寝顔を見てたかも知れないよ…。」


 私は、かつて同棲をしていたことがある。同居人が私にくれた思い出は、この体に絡みつきまとわりついてくるような気配だけである。


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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!