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【なりたい人がなるべき】

私は曖昧な人間だと思う。
曖昧に笑い、曖昧に困り、曖昧に漂う。

この体内にぐらぐらと沸き立つ怒りも、底の見えない冷たい闇も、他人に見せることはしない。

私は実に曖昧な人間だ。
言葉尻を曖昧に濁して、曖昧な相づちを打つ。

これは何十年生きてきてやっと身につけた処世術の一つだろうか。
いや、この曖昧な波の中を私はもうずっと、何年も何十年も漂っている。

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苦手な担任教師がいた。
彼女は常に正しくて、その正しさを生徒に写すべく常に目を光らせていた。
まだ華奢で未熟だったこの体に、彼女の視線が四方八方から刺さるのが耐えられなかった。

ある日の放課後、ある男子と私は職員室に呼ばれた。
コンコン、と古い引き戸を慎重に鳴らし、順に名を名乗り、担任の席へと不安気に向かう。
所在無さげに佇む私たちに、はつらつとした表情の彼女が持ちかけたのは、室長と副室長への立候補だった。次の日、学級会が開かれることになっていた。

「なるべき人が、なるべきだと思うんだよね。」

彼女のその言葉を、真剣な眼差しで聞く私の眼球の奥の奥は虚ろだった。私はただテストの点数がとれるだけの、教師に反抗的な態度を取る勇気が無いだけの、貧弱な生徒だった。

人をまとめ、引っ張り、フォローするなど、そんな素質を一切、持ち合わせていなかった。そんな存在になりたくもなければ、なれる訳もなかった。そんな貧弱な人間だった。


「やってくれるか?」
その直毛の短い髪型にふさわしいストレートな念押しが、私の未熟な心臓に突き刺さる。しかも高速で、しかも真ん中に。心臓が細かく弱々しく痙攣する。その振動を感じながら、やっと私は絞り出した。早くこの状況から逃げ出せる方法を。

「…はい……。」

それは、流されてしまうという方法だった。

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「渡辺君はどうだ?やってくれるか?」

教師は、私の横に立つ背の高い寡黙な野球少年を見た。彼は一言、ぼそりと言った。
「や、無理です。」

急激に視界が黒に呑み込まれていく。教師の淡いポロシャツの胸ポケットの上にこの視線を置き去りにして、私はこの場所から消えてゆく。

断れる人と、断れない人。
恐れない人と、恐れる人。
前に進める人と、斜め後ろに流される人。

数分前、一緒に不安気に、あの引き戸のレールを跨いだ二人ではもうなくなっていた。肘と肘がかすりそうなこの距離の彼と私の間には、はっきりと濃い線が一本、深く刻み込まれていた。もう二人は、同じ位置に立っていなかった。

「なんだよ潔くないなぁ。やっぱりこういう決断の時は、女の方が潔いんだよな!」

パッと私に向けて咲く快活な笑みを受け止めきれない虚ろな目が弱々しく曖昧に笑う。
横の渡辺君からも、気まずそうな曖昧な笑みがこぼれる。
しかし二人の曖昧さには決定的な違いがあった。
私から漂う曖昧さは後退を意味し、彼が放つ曖昧さは前進を意味した。
二人の間の濃い線は、嫌気が差すほどに、一層濃さを増していく。        
       

校舎を出て、重たいヘルメットを被り、カラカラと弱々しく三十分間自転車を漕ぎ続けた。後悔という名の黒い海に流されながら。
勢いよく校門から出ていった渡辺君のシャツの白さに苦しくなりながら。

 
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「もしもし……お忙しい所、すみません……。家に帰って考えたんですけど……やっぱり私には出来ないと思って……。」 

渡辺君のシャツの白さが光って光るから、いつの間にか私は受話器を掴んでいた。今ならまだ間に合うと、風になびくあの白さが言うからだ。
しかし華奢な体が絞り出すか細い声は、大きな声にいとも簡単に打ち留められた。

「こんな大事な話を、電話で済ませようとするんじゃない。」

ギシギシと鳴る車輪の重み、じっとりとのしかかる赤信号の重み、両手を添えないと開けられない職員室の引き戸の重み。
彼のように颯爽と去りたかった。
白いシャツをなびかせて。 
なのに何故私は今、逆方向に漕ぎ続けているんだろう。あらゆる重みに押しつぶされそうになりながら。何故、またあの重苦しい職員室を目指しているんだろう。

振り絞った声がかき消されて、耳をつく説教混じりの説得を聞いていた。耐えられなくなって、私はまた弱々しくこくりと頷いた。

次の日の学級会。
立候補にいち早く手を挙げた活発な女子生徒を制して、担任教師は言った。

「なるべき人がなるべきだと思うんだよね。」

彼女に誘導されて弱々しく挙げたこの手を、彼女に誘導された全員が認めた。
関心の抜け落ちた軽い拍手が鳴り響く。
虚ろな瞳は濁りを深める。

自分は一体何者なのか知りたかった、知ろうとしていた十四歳の少女は、自分の存在が闇に吸い込まれて見えなくなっていくのを感じた。

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一年後、ようやく時が経ってくれて、私はその踏み台から降りられた。
一年前、私よりも先に手を挙げていた、あの女子生徒の名前を残して。

「なりたい人がなるべきだと思うので。」



十五の春は、爽やかだった。
最上階の教室から見える爽やかな青空に、爽やかに膨らむ生成り色のカーテンに、爽やかなあの子の声が飛んでいる。
「ほら!男子!ダラダラしてないで早く並んでよー!」
あぁもう!と呆れるような苛立つような楽しそうな彼女の溜息を聞きながら、私は少しだけ笑みをこぼした。

そんな私の横を、「適材適所」という四字熟語が過ぎていく。そのあとを「道は好む所によって易し」ということわざが追いかけていった。

私の場所は一体どこにあるのだろう。
私の道はそこに繋がっているんだろうか。

明るいあの子の声が鳴り響く中で、そんなことを考えた。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!