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【この痛みに付いていくだけ】

私は急激な腹痛に襲われていた。
胃じゃなくて腸じゃなくて、もっとずっと奥を絞られるような痛みだ。

この痛みを、私は知っている。

それはいつも、津波のような興奮とともに押し寄せてくる。なだれ込むように。突き上げるように。

私は、いつもそれに従うしかない。
それは私を裏切らないと知っているから。
そう、まるで大きな何かからのサインのように。

         ∇∇∇

16歳になった私は、図書館で公衆電話の受話器を握っていた。
勉強したあと、母に迎えを頼もうとしていたのだ。
自宅の番号をプッシュし、パッと顔を上げると、目の前にそれはあった。

『アメリカ交換留学生募集』

はい、もしもし?と繰り返す母親の声が弱く響いた。私の目はポスターから剥がれなかった。

ギュウウゥゥと奥を絞られてゆく感覚。
あぁ、この感覚…。
冷や汗が滲む額と首筋。 
ドクドクと脈打つ音。

『私…』

あぁ、勉強終わったの?迎えに行く?と母の声が弱く響く。

『交換留学のポスターが…あって…。行きたい、どうしても行きたいの…。』

腹痛に耐えながら何とか絞り出す。

『応募したいの…どうしても行きたくて…。』

母はあからさまに消極的な態度を取った。
そんなこと…すぐに返事できるわけ無いでしょう…後にして…、と小さく答えた。

じゃあ向かうから、と一方的に切られた受話器を置いた後、私はゆっくりと壁ににじり寄った。そして張り付くかのようにそのポスターを見つめた。
募集要項、対象者、注意事項、一言一句、目に焼き付けた。

何十分そうしていたか分からない。

短めのクラクションが数回鳴り、私は現実に引き戻された。
見慣れた乗用車が停まっている。
私はすぐに歩き出した。

         ∇∇∇

あの日の夕闇を忘れることはないと思う。

太陽が去った薄暗さと、図書館のあの静けさと、押し寄せる興奮と、深い、腹痛。

私はバタンと車のドアを閉めると、言葉を選びながら話し始めた。
なんとか説得しなくてはという焦りを抑えながら。
早く駒を進めてしまいたいという衝動を抑えながら。

母は言葉を発しなかった。
それが無関心から来るものではないことは分かっていた。
彼女が無表情、無口になるのは決まって困惑している時だということは知っていた。
そしてその困惑の根底には、同情心があるということも。

私はその、彼女の柔らかい部分に訴えかける。
なんとか同じ方向を向かせようと。

だってもう、この痛みが私を離さない。
いつだって、従うしかなかった。
いつだって、従ってきた。
 
それで後悔したことは不思議と無かった。
結果はいつも、満たされた。
だからこの痛みを、信じるしかなくなった。

私は、この体の奥深くでしんしんと疼くこの痛みに付いていくだけだ。
信じて付いていくだけだ。

これを直感と呼ぶのか、サインと呼ぶのか、気のせいと呼ぶのか、それは未だに分からない。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!