伝わる嬉しさ伝わらぬ寂しさ

コミュニケーションを取ると、良くも悪くも、伝わったり、伝わらなかったりの中で嬉しかったり、寂しかったりを繰り返すものだなと思います。伝わる嬉しさの中でも、自分が本当に伝わったら嬉しいものと、でもこれ以上のところはどうしても伝わらないよなーと寂しさを感じるものとがあったりもして。

でも、まさか伝わると思ってないとき、不意打ちで意志が伝わってしまうときの、どうしようもない嬉しさを感じてしまうと、ああ僕は本当に懲りないやつだなあと思う。

嬉しさは嬉しさを一緒に連れてくるし、寂しさも一緒に連れてくる。程よい距離でいるほうが寂しさや切なさを感じなくても済む。でも、それじゃ、生きているって言えるのか、ということを投げかけてくる自我。そんなことを言ってるから、いつまでも苦しみの輪廻から解脱できないんだけどね、クククと何かが笑っている。

振れ幅が大きいと、どちらにせよ、嬉しい悲しいが相応に伴うもの。だから安易に刺激的な不意の嬉しさに心を奪われていられないな、と思うし、一方で苦しさそのものが不幸を生むのでもないという当たり前のことを考えたりするのであった。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。