一遍パイセンまじやばい

お遍路を経て、菩薩道を歩む決意を自然と固められた、友人のカイさんから衝撃的な本を紹介してもらった。


「この本に出てくる一遍さんを、常に横田くんを重ねながら、思い浮かべて読んでてさー。これは紹介すべきやと思って。」


強烈なエネルギーをもった「踊り念仏」で室町時代の世を駆け抜けたということしか知らない一遍上人だったが、捨聖(すてひじり)と呼ばれたことを記憶の片隅で覚えていて、どんな人なのかはよく知らなかったが。


作者の独自の解釈がたっぷりと入った、伝奇小説とでもいうか、創作的な部分があると思って読めばちょうどいいような本ではある。ただ、そこに持つ圧倒的な熱量は素晴らしく、勢い良く踊り狂っていた一遍パイセンの姿勢が反映されているかのような駆け抜けるような文体である。おもしろい。


基本的には浄土宗の教えを大切に大切に学び取り、解釈も加えつつ、自分でつくった「南無阿弥陀」と書いた札を配りまくって全国を歩きまくって、さらに長野で開眼した「踊り念仏」があまりにも自他共に満足度が高すぎたので、その後は各地で場所を借りたり、押しかけたりしながら、念仏を唱えて踊りまくってみんなを巻き込んでいったという。

太鼓をたたいたりしてやかましく騒ぎ立てながら、意識がぶっ飛んでしまうまでビョンビョン飛び跳ねて、トランス状態でフラフラになって念仏を唱え続けるのだ。完全に仏教会における伝説的カリスマパリピである。


生き様がひたすらロックンロール過ぎるが、ふざけたところが一切なく、全力で、念仏を叫んで、踊りまくって、笑って、泣いて、汗かいて、ぐちゃぐちゃになってその瞬間に溶けていくことに没頭することを推奨した。


親鸞上人は

「悪人ならもちろん、善人ですら南無阿弥陀って心から称えるだけで、極楽で仏になれるってことがずーーっと前から決まってんねんで」

ということを伝えまくり、日本中に浄土真宗の門徒の数が増えたということは、日本人に仏教がこうしてひろく伝わっているだけで大きな価値がある。


一遍上人は

「この世の中にいるすべての人が、たとえ信心を持っとらんでも、すでに救われることは決まっとるんやで。」

というわけで、もはやなんもせんでも、もう救われているんだぜという説を展開して、だからこそ俗世の所有の概念が溢れる世の中のあさましさに気づき、自分のこだわりを捨てて踊りまくろう。


捨てて、捨てて、捨てて、生きて、生きて、生きて、踊れ、叫べ、跳べ。


捨ててしまえ、離れてしまえ、踊ってしまえというわけである。
これはまたニュータイプのイカレたパイセンである。


ただし、ふざけているのかと思ったら、実はめちゃくちゃ真剣に考えているので、他の宗派も無碍に馬鹿にしていられず、呼応して踊るお坊さんたちもいたようだ。感化する影響力が凄まじいのである。

それは本気だからだろう。命を賭けていることが伝わるからだろう。


すごい人になりたいということより、燃やし尽くして死ねるといなと思う。

そういう意味で「一遍上人の話を読む際に、僕を思い起こしてくれる」とか奇跡のようなありがたさである。そこまでは全然まだまだだが、本当にそうありたいと願っているし、これから先にそうして繋がっていくのだろう。


仏教のパイセンたちはイカレとる。
やらねば生きていられなかった、キワモノっぽさが見えて嬉しい。


いやー、なんかそろそろ覚悟が決まりつつあるかも。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。