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セリム・パルムグレン―『フィンランドの伝記辞典』(2011)から邦訳

 セリム・パルムグレンはフィンランドのピアノ音楽を確立した人物であり、ピアノ協奏曲を作曲したフィンランドで最初の作曲家である。彼は想像力溢れる芸術家でありながら優れた解釈も持っており、また自身の作品の解釈者としても国際的な名声を集めていた。1930年代と1940年代においてパルムグレンはフィンランドの音楽界の中で非常に影響力のある存在となっており、シベリウス音楽院の初代作曲科の教授を勤めていた。

 セリム・パルムグレンはポリで生まれ、裕福な中流階級に育った。とりわけ彼の母、エマ・パルムグレンは音楽や音楽的野心における旺盛な興味を温かく見守った。セリムは抗いようもなくピアノに引き寄せられた。彼の最初のピアノレッスンは彼の姉のアンニから受けた。彼女自身もストックホルムとライプツィヒで幅広い教育を受けていた。パルムグレン家における音楽の興味の中心はロマン主義のピアノ音楽で、とりわけシューマンやショパンであったが、それだけでなくジョン・フィールドやフランツ・リスト、チャイコフスキー、アントン・ルビンシテインやエドゥアルド・グリーグらも含まれていた。

 セリムはオルガニストのヘイッキ・ニソネンスの許で幾度となく音楽を作り、また彼の兄弟であるアラン、ヨップ、ヘイノともまた演奏し、作曲していた。彼の少年時代を取り巻く重要な一部となった環境はポリ劇場であった。ここでは音楽喜劇やオペレッタも行われていた。セリム・パルムグレンの作曲作品は彼自身とヤルマル・ホルムベリ、ヴラディミール・ホルムベリを含むトリオの形式で書かれており、彼らは初等教育学校の先生であり、その後にはカヤーニの音楽ワークショップの講師であったアドルフ・エミール・タイパレにパルムグレンを推薦した。セリムの母はこの提案に感謝し受け入れ、1895年に卒業した後に彼はマルティン・ウェゲリウスのもとへ行き、自身の作曲作品を彼に手渡した。彼はフェルッチォ・ブゾーニのコンサートへ聴衆として招かれ、その後に彼はピアニストに、「そしてできることならば作曲家にも」なることを決心した。

 マルティン・ウェゲリウスが学長を務める、アカデミックな学習を積むために設立したヘルシンキ音楽学校で、ポーランド人のヘンリク・メルツェルはパルムグレンのピアノの師となった。独学で音楽を学んだという学友エルッキ・メラルティンとアクセル・トルヌッドとの交友を通し、議論をしたり、ロベルト・カヤヌスが率いるフィルハーモニー管弦楽団の演奏会に定期的に足を運んだ。民族的ロマン主義の作品と共に、シベリウスのコンサートに霊感を得ており、パルムグレンはまるで本当の魔法のようにそれを感じた。しかし母の死が、パルムグレンが学習を始めた最初の年に暗い影を落とした。メルツェルはヘルシンキにたった1年しか留まらず、続く2年間はドイツ人のワルター・ペツェットがパルムグレンを教えた。彼はパルムグレンにウィーン古典派とロマン主義の音楽をたたき込んだ。パルムグレンの最初のコンサートは1898年のポリ夏季歌謡祭であった。またK.F.ヴァセニウスが彼の作品1にあたるピアノ曲を出版した。これはパルムグレンが音楽学校を卒業する1899年に、師事していたピアノ教師、カール・エクマンのために書いたものであった。

 経済的な助けのお陰で、パルムグレンはベルリンに留学し、学習を続けることができた。ベルリンではとりわけリストの弟子であったピアニスト、コンラッド・アンソルゲにピアノを学び、作曲をウィルヘルム・ベルガーに学んだ。彼はさらに、ブゾーニとエドゥアルド・リスレールのコンサート、またアルトゥール・ニキシュが率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートから聴衆として多くのことを学んだ。翌年の夏にはパルムグレンが自身の偉大なロールモデルとしているブゾーニに、リストの街であるヴァイマルで学ぶことが出来た。ブゾーニとの夏の後、自身のピアノ協奏曲を書く準備が整ったと感じた。ヴァイマルからの帰路の途上、彼はベルリンで偶然ヘイッキ・クレメッティとスオメンラウル男声合唱団と行き会った。彼らのプログラムにはシベリウスの〈月よ、ようこそ Terve kuu〉(作品18-2)と〈船旅 Venematka〉(作品18-3)が含まれており、これらはパルムグレンにカレワラとカンテレタルの世界を開かせ、彼もまたシベリウスの自然なポリフォニーと興味深いハーモニーをその音楽語法のなかに見抜いたのだった。

 母国に戻ったすぐ後に、パルムグレンはYL男性合唱団の指揮者として招聘された。彼は大きな冒険としてこの新たな職に就いたのである。合唱という仕事の傍ら、彼はピアノの演奏会と作曲を行った。彼はシベリウスがヴァイオリン協奏曲を書いた同じ年に、最初のピアノ協奏曲を完成させ、1904年12月5日にロベルト・カヤヌス指揮のもと初演を行った。この協奏曲の改訂された拡張版は、翌年開催された彼の自作演奏会に完成された。

ピアノ協奏曲第1番 作品13 (1903)

 パルムグレンは自身の学習を続け、1904年にはベルリンでヴィルヘルム・クラッテのもとで対位法を学んだ。彼は出版社シュレジンガーと知り合うようになり、彼の作品を出版する海外で初めての楽譜出版元となった。母国フィンランドにおいては、彼は新たな挑戦と向き合っていた。マイッキ・ヤルネフェルトとアルマス・ヤルネフェルトが、エドゥアルド・ファッツェルと共にリヒャルト・ワーグナーのオペラを上演しており、それをしてパルムグレンはJ.J.ヴェクセルの戯曲『ダニエル・ヒョールト』の音楽を書くという計画へと強く突き動かされたのだ。1906年に彼はオペラの本場イタリアに赴き、ジョアッキーノ・ロッシーニの生地であるアドリア海に面したペーザロを訪れた。「この台本はほぼ完成されており、音楽の主題の大部分は既に私の中で明確なものとなっていた」と彼は回顧録である『私は音楽家になった Minusta tuli muusikko eli』作品111に記している。

 イタリア旅行中に書いたパルムグレンの作品には、彼の中でも重要な〈海〉や〈ヴェネチア〉を含む24の前奏曲がある。1909年、ボローニャとフィレンツェを経由して帰国している途上で、パルムグレンは自身のオペラとピアノ協奏曲第2番《流れ Virta》のスケッチを行っている。ベルリンにおいて、彼はトゥルク音楽協会管弦楽団から便りを受け、デンマーク人のフレデリク・シュネドラー=ペーターゼンの後任として指揮者を務めないかと提案を受けた。パルムグレンはこのオーケストラで初めてのフィンランド人指揮者となった。パルムグレンは自身のオペラをナーンタリで完成させ、1910年4月にトゥルクで行われた初演は大成功を収め、その後ヘルシンキでも上演された。シグリド・ストーラム役をマイッキ・ヤルネフェルトが演じた。彼の記憶では、自身の冴えたセンスとユーモアでこう記している―「その同年に、私はシグリド・ストーラム、別名マイッキ・ヤルネフェルトと結婚するというとても奇妙なことが起こったのです」と。

 1912年にパルムグレンはベルリンで再び作曲を学び、ピアノ協奏曲第2番を完成させた。これは1913年の10月13日にヘルシンキで、ゲオルク・シュネーヴォイクト率いるオーケストラと共に初演された。同時にこのオーケストラとソリストはストックホルムに招かれ演奏し、大きな成功を得た。ピアニスト、イグナツ・フリードマンが自身のレパートリーとしてパルムグレンのピアノ協奏曲を取り上げ、ブリュートナー交響楽団のソリストとして1913年の12月に、リストやチャイコフスキーと共にベルリンで演奏した。このコンサートをきっかけとして、パルムグレンの国際的な評価が芽生えたのである。

ピアノ協奏曲第2番《流れ》作品33 (1913)

 パルムグレン夫妻は第一次世界大戦から逃れ、様々な冒険のような行動や友人の助けによってストックホルムに落ち着き、成功を収めた。この地でパルムグレンは自身の3つ目のピアノ協奏曲《変容 Metamorphoses》を書いている。この当時、彼は演奏旅行でいっぱいであった。とりわけ記憶されているのはウプサラでのコンサートであり、ここではヒューゴ・アルヴェーンが率いる男声合唱団オルフェイ・ドレンガルがコンサートの後にステージに立ち、パルムグレンの男声合唱曲で、グスタフ・フレーディングの詩による《ミラノの案内人 Sjöfararen vid milan》をはじめとするいくつかの作品を演奏した。夫妻は1916年にフィンランドに戻り、パルムグレンは1916年11月14日にカヤヌス指揮のもと、《変容》を初演した。このコンサートは直ちに「熱狂的」に迎え入れられ、《流れ》と共にこのオーケストラの人気のレパートリーとして残された。

ピアノ協奏曲第3番《変容》作品41 (1915)

 パルムグレンの人生においてとりわけ重要な出来事は、1919年にコペンハーゲンで開催された「北欧音楽の日」における《変容》の演奏であり、ここでパルムグレンは北欧の指導的なピアニストであり、ピアノ音楽の作曲家であるという地位を確立したのである。「北欧のショパン」、「北欧のシューマン」の呼び声は確かなものとなった。パルムグレンとマイッキはアメリカへの演奏旅行を決めた。この地は1920年にパリへ向かった時に通過していた国である。多くのツアーの後、彼らはついにアメリカの音楽界でも高い名声と地位を手に入れた。パルムグレンのピアノ作品は当時のアメリカでも演奏され、楽譜の出版契約も果たすなど、彼の評判は上がっていった。ピアニスト、パーシー・グレインジャーによるニューヨークでのコンサートは成功に終わり、また同様にミネアポリスやダルースで行われたマイッキ=パルムグレンの歌によるコンサートも成功を収めた。

 1921年の夏、ダルースの音楽院にて作曲を教えていたところ、パルムグレンはニューヨークのロチェスターにあるイーストマン音楽学校の理事を務めるアルフレッド・クリンゲンベルグに同校へ招かれた。パルムグレンはそこで作曲と和声、音楽史の講座のアシスタントピアニストと講義を務めることを約束した。彼はクリーヴランド管弦楽団と共に《流れ》を、またロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団と《変容》を演奏した。

 1926年にパルムグレンがフィンランドに戻ったとき、ピアノ協奏曲第4番《四月 April》がすでに完成に近い状態にあり、彼はそれをナーンタリで完成させた。これは1927年12月15日にカヤヌス指揮のもと初演された。パルムグレンは1928年に行われた自身の50歳記念演奏会にも満員の聴衆の前で《四月》を演奏し、マイッキ=パルムグレンの伴奏を務め、イルマリ・ハンニカイネンが《流れ》を演奏し、YL男性合唱団が歌った。V.A.コスケンニエミの詩によるカンタータ《トゥルクのユリの花 Turun lilja》は1929年のトゥルク700周年のために準備された。トゥルク大聖堂でのリハーサルの際、マイッキ・ヤルネフェルト=パルムグレンはアリアの最中に脳出血を起こし、その数日後に亡くなってしまった。

ピアノ協奏曲第4番《四月》作品85 (1926)

 1929年にパルムグレンはヘルシンキ音楽学校にピアノ講師として呼ばれ、1939年にはシベリウス音楽院の初代作曲科教授としての地位を得た。1930年にはミンナ・タルヴィクと二度目の結婚を果たした。この時代における最も重要な作品にはピアノ協奏曲第5番が含まれており、これはパルムグレンの妻から「大いに様式的に」作曲するよう示唆を受けたものである。この作品はロシア軍の空爆が行われているさなか、ナーンタリで完成された。1942年2月13日に行われた初演には、パルムグレン自身が指揮台に上がり、ケルットゥ・ベルンハルトがソリストを務めた。このコンサートではパルムグレンのこれまでの5つの全ての協奏曲の中でも最も大きな成功を収めた。パルムグレンはナーンタリの500周年記念にもラリン=キュオスティの詩による《ナーンタリの丘の歌 Armonlaakson laulu》を作曲した。

ピアノ協奏曲第5番 作品99 (1941)

 セリム・パルムグレンは1945年に新たに設立されたフィンランド作曲家協会の理事に選出され、1947年にはシベリウス基金及び音楽著作権を取り仕切るTEOSTOの会長となった。パルムグレンは20年以上もの間、フィンランドの新聞『Hufvudstadsbladet』に音楽批評を載せ、音楽雑誌『Suomen musiikkilehti』にいくつもの論文を寄稿した。彼は晩年、いくつかの病気に見舞われ、公演が難しくなってしまったことを意味していたが、彼の友人たちは彼がなぜ心から自作の作品を演奏できるのか、その演奏に喜びを感じると共に不思議に思っていた。彼の音楽的記憶力は驚異的なものであったのだ。

イスモ・ラフデティエ著
小川至訳

参考文献
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