『死靈』と存在

『死靈』は、自己が自己であらざるをえぬ酷薄さ、不快さ、そこからの逸脱志向を原動力として描いている。自己の同一性の不可能性を結論付けているわけではない。 過去の自分と、未来の自分が今の自分と違うという話ではなく、常に自分は自分と重なりつつズレつつ存在している状態を念頭にしている。

私は私と自己同一しないというのは、脳が考えている云々、ものに自我が有る無い云々という話ではない。 存在する存在の呻きが思考・思念であり、その淵源は存在が存在の中へ望まぬ姿に閉じ込められている/非存在が非存在として未出現に閉じ込められているという世界認識から発する。唯物論ではない。

ちなみに、 Ich - Ich = Dämon の Ich は「自我」の意味もあるそうだ。 Ich + Ich = Ich つまり自我をいくら重(ねて)視(たと)しても、そこには自我しかない、という自己認識から出発している。自我への固執が過誤の宇宙史を形作ってきた。デーモンとしての逸脱者がその誤謬を弾劾し続けている。

『死靈』を単なる唯物論的世界観、独我論的世界観、観念論的世界観として読むのは、そこに「存在」が完全に抜け落ちている。そういう読み方もあるのだろうが、それでは暇つぶしにもならないほど面白くもないに決まっている。小説に書いてあることを読んでみれば哲学の知識がなくともこのほどは読める。

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