見出し画像

中間に位置するものへの関心。


おばんです。
仙台で写真を撮っているイタリーさとうです。
今日もローカルな話し失礼します。
と、いきたいところですが今日は番外編。

写真と、表現についての話し。
Twitterで素敵な写真を上げている薄明さん@_hakumei_

毎回写真には余白を設けて投稿されているのですが、その余白と写真がバッチリ噛み合ってていつも心に刺さるんですよね。
記録としての風景でもあり、作品としてもずっと見ていたくなる写真です。
ある日、薄明さんとリプでのやりとりの中で、こんなことを尋ねてみました。

野暮ですがね(笑)
余白ってどんな意図があるのかなーと。
思考の部分の話しにすごく興味があって、思わず聞いてしまいました。

それに対して、薄明さんからアンサーに当たる投稿がありましたのでご紹介します。

詳しくは記事をご覧になっていただくとして、写真の外側に設けられた余白のことについて、主に実用性の観点からお話ししていただきました。
表現の部分においても「一枚の写真をページのように見たかった」という言葉で述べられているように、余白についての意図を知ることができました。
本当に、ここまで丁寧に書いていただいて、丸裸にするようなことなのに、たくさん書いていただきありがとうございます!!

さて、私も余白の効果とか、意味とか考えていたのですが。
「鑑賞者/余白/写真」と、世界の内と外を分けて繋ぐ役割があるのかなーと思いました。
額装して写真を提示する行為に近いのかなと。
この辺りがうまく言葉にできませんが、私と写真の間に位置しているのが余白なのかなと。

ここからは私の好みの話しになりますが、
「そもそも余白という存在自体が好きなんじゃないか?」
「自分の中に中間に立つものへの関心があるんじゃないか?」と思い始めました。

昔演劇を学んでいた時期があって、その中で「能」について学んだ時、基本的には「ふーん」とほとんど関心を持てず不真面目な態度だったのですが(笑)
能舞台にある「橋掛り」という機能だけには興味が湧いたことを思い出しました。
橋掛りを説明すると、まず四角い本舞台があって、背景の松の木があって、その脇に演者が通る通路があるのわかります?

はい、すいません。
リンクを飛んでイメージを共有していただければ。
そこを橋掛りというのですが、単純に本舞台と鏡の間(演者が出待ちする場所)を行き来する実用的な場所じゃなくて、「あの世とこの世」を結ぶ役割があって、そういう表現を暗示しているんですね。

あの世とこの世を繋ぐ中間の存在。
ここに妙な魅力を感じ、なんとなく覚えていて、今日、写真の話しから能に繋げるという無茶に至るわけです(笑)

それに似たものを余白からも感じているなという話し。
あの世とこの世のように鑑賞者と写真の間に立つものが余白なのかも。

だから中間に位置する余白が好きなのかもしれない。
しかしなぜ中間が好きかと聞かれても、よくわかりません。
好きなものは好きなんです。

ふと、最近自分の撮る写真を振り返っても、朝焼けや夕焼け、朝と夜の中間の時間が好きでよく撮ってるなーと気づきました。
長い文章に疲れないよう差し込んでた写真がそれです。

黄昏時。
元々は「誰そ彼時」と言うように、暗くて目の前の人が誰かわからないくらいの時間帯をそう呼んだそうです。
これもあの世とこの世の間にある中間の時間帯。

まとまりはないけれど、余白という存在から中間に位置するものへの興味・関心。
そんな話しでした。

改めて最後に、薄明さんの写真は本当に素晴らしいんでぜひフォローしてみてください!

#写真 #コラム #日記 #雑談


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?