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生牡蠣トラップ

人はやむを得ない理由で、誰かに迷惑をかけてしまうことがある。
それに気づいたとき、謝罪は必ずしなければならない。
しかし、タイミングなら選ぶことができる。
それしだいで、相手の対応はまったく違ったものになるだろう。

――――――――――

「板倉、このあと何かあるの?」

二年先輩の金成(かねなり)さんが訊いてきた。
ネタライブが終わって、楽屋で帰り支度をしているときだった。

「いえ、帰るだけですけど」

「お、淳さんにメシ連れてってもらうんだけど、一緒に来る?」

「え……」
緊張が走った。当時僕はまだ芸人として二年目で、ロンドンブーツの淳さんとは挨拶さえ交わしたことがなかった。

「いやでも、淳さんにとっては知らない人間ですし、僕、家が埼玉ですし」
断る理由になっていないことまで言いながら、僕は誤魔化すように笑った。嬉しさや行きたい気持ちは大きかったが、無意識に緊張から逃れようとしていたのだ。

「大丈夫だよ。そういうこと言う人じゃないから」
金成さんは僕を励ますように、肩をぽんと叩いた。

「あ、じゃあ……」

ダイノジの大地さんも約束をしていたらしく、僕たちは三人でタクシーに乗り、淳さんと待ち合わせているという店に向かった。

劇場でよくしてもらっている二人の先輩に、
「やっぱりまずいっすよー。僕なんかが行ったら」
などと僕は弱音を吐いた。

「だーいじょぶだよ!」
と大地さんは笑って言ってくれた。

着いたのは、高級そうな和食屋さんだった。

淳さんもちょうど着いたらしく、店前で合流した。
金成さんが促してくれたおかげで、僕はすんなりと初めましての挨拶ができた。

四人で個室に入った。
僕の隣には大地さん、向かい側に金成さん、そして斜め向かいに淳さんといった席順となった。

「牡蠣(かき)食える?」
メニュー表を眺めながら、淳さんは誰にともなく訊く。

「おおー、いいっすねえ」
「食いたいっす!」
金成さんと大地さんはノリノリで答えた。

「あ、はい」
一拍遅れて僕も答えた。
嘘だった。いや正確には、不明なのだった。ここまでの人生で牡蠣を食べた経験のない僕には、食べられるかどうかがわからなかったのだ。
だからといって、それを長々説明して、この和やかな空気に水を差すのもどうかという気持ちから、「はい」と答えたのだった。

淳さんは生牡蠣四つと、いろいろな美味しそうなものを注文した。

やがて殻に載ったままの状態で、生牡蠣が四つ運ばれてきた。
身の部分を濡らしているのは海水だろうか。
3人の先輩はそれを一つずつ手に取り、それぞれ自身の口元まで持ってくると、

ズルズル――。

吸い込むようにして、身を口の中に入れた。

ああ、何て美味しそうな音なんだろう。
聞いているだけで涎が出てきそうだ。

生牡蠣の食べ方を知ったばかりの僕は、先輩たちを真似て、殻ごと口元に持ってきた。そして、

ズルズル――。

吸い込むようにして、身を口の中に招き入れた。
一瞬で口内に磯の匂いが広がり、う、と僕は嗚咽した。
横隔膜が跳ね上がった勢いで、身が自動的に口から飛び出す。
身はつるりと殻の上に戻った。まるで、何事もなかったかのように。

自分が生牡蠣NGの人間だったことを知った僕は、吐き気を堪えながら視線をめぐらせる。

先輩たちは美味しそうに、殻を傾けて海水らしき汁を飲んでいる。いま起こった出来事に、誰も気づいてはいないらしい。

どうする? これを食べることは不可能だ。かといって、ポケットに隠すのも厳しい。
瞬時に考えた結果、僕は生牡蠣を持った手をすっと伸ばし、皿の上に戻した。

先輩たちは楽しげに会話している。セーフだった。

口内に残る磯の成分を中和するため、僕はウーロン茶を飲み、焼き魚を食べた。どうにか吐き気は止まった。

先輩たちの会話を聞いたり、たまに訊かれたことに答えたりしているうちに、僕は生牡蠣のことを忘れかけていた。うまく輪に入ろうと必死だったのだ。

「板、牡蠣食わないの?」
会話が落ち着いた頃、あの生牡蠣を指さしながら、大地さんが訊いてきた。

「え、まあ」
どきりとしたが、何とかそれを表には出さず、僕は曖昧に答えた。

「じゃあ、もらっちゃお」
大地さんは目をきらきらとさせて、一つ残された生牡蠣に手を伸ばす。そして殻を摑み、持ち上げ、自身の口に引き寄せていく。

僕は心の中で叫んだ。
ダメだ、大地さん! 食べてはいけない! それはただの生牡蠣じゃない! 僕の口の中にいちど入った、半生牡蠣なんだ!

ズルズル――。

想いは届かなかった。
半生牡蠣はあっけなく、大地さんの口に吸い込まれた。

僕は大地さんの横顔を凝視する。
大地さんは正規の生牡蠣を食べていた。つまり、半生牡蠣と比較ができてしまう状態だ。いちど僕の口に入ったことにより、磯感が足りなくなっていることに気づいてもおかしくはないのだ。

「おー、うめえ」
満足げに、大地さんは口元を拭う。
僕は安堵し、無意識に止めていた息を吐き出した。ひとまず僕の行為が露呈する心配はなさそうだ。

無事に会はおひらきとなり、店前で解散した。淳さんは去り際に「金成に俺の番号聞いといて」と言ってくれた。家の最寄り駅を出て、さっそくショートメールでお礼の気持ちを伝えると、「また行こう!」という返信がすぐに届いた。

自宅に向かって夜道を歩きながら僕は、いい先輩だな、と思った。
淳さんだけでなく、誘ってくれた金成さんも、生牡蠣トラップに気づかないでくれた大地さんも。

その日以来、僕は大地さんと会うたび、生牡蠣のことを思い出してしまうようになった。
やがて無自覚のうちに、「後輩が口に含んだものを美味そうに食った男」というレッテルを貼っていたことも事実だ。
申し訳なさから、いつか謝罪をしなければならないと思っていた。

数年の時が流れても、僕は謝れずにいた。
しかし、絶好のチャンスが訪れた。インパルスでやっていたラジオ番組に、大地さんがゲストで来てくれたのだ。
僕はあの日のことをすべて告白し、大地さんに謝罪した。

「おっまえ、なんだよー!」
マシュマロマンみたいなベビーフェイスに満面の笑みを浮かべ、大地さんは僕の肩を叩いた。

それで、おしまいだった。

――――――――――――

だが、もしもあの時点で、僕が白状していたらどうだっただろうか。
いくら温厚な大地さんでも、さすがに怒っていたに違いない。
ではその違いは何か。
もちろん親しくなったこともあるだろうが、最大の理由は、
いちど僕の口に入った生牡蠣の成分は、もう大地さんの身体にはない、
ということではないだろうか。

現在の自分に影響を及ぼさない過ちであれば、人はたいてい許すのだ。

あの謝罪のタイミングは、我ながらベストだったと思っている。


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