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偶然の実写化

高校一年のときの担任は、中年で、髪がカールしていて、口ひげを生やしていた。おまけに、男のくせにヒステリーを起こすことがあり、そんなときは声が上ずった。
僕たちは彼を――「マリオ」と名づけた。

林間学校二日目の朝、宿泊施設の部屋で、僕は目を醒ました。
室内には朝陽が射し込んでいて、同室で寝た友人たちは着替えはじめている。

部屋は畳敷きのスペースがメインで、敷居を挟んだ向こう側にベッドが二つある。その一つではTという友人が、まだ寝ているようだった。
どうやら自分が最後に起きたわけではないらしい。
僕は布団を跳ねのけて身を起こした。

「急がないと。朝食の時間過ぎてるよ」
Kが僕を急かす。

「まあ、大丈夫でしょ」
部屋の隅にある洗面スペースで、歯磨きをしながらHが言う。

僕は壁掛け時計を見た。
たしかに朝食会場に集合していなければならない時間を15分ほど過ぎている。しかし、僕の感覚はHに近かった。最悪、朝食を抜くことになったとしても、昼まで我慢すればいい。それだけの話だ。

僕たちは全員寝坊していた。夜、こっそり酒を飲んだわけでもなく、朝まで語り合ったわけでもなく、僕たちはただ、至ってストレートに寝坊したのだった。

突然、部屋のドアが荒くひらいた。

「何をやっとるんだ!」
突入してきたのはマリオだった。
彼は鼻息を荒らげながら、問答無用で僕たちを一発ずつひっぱたいた。

寝坊くらいで殴ることはねえだろうが……。
殴り返してやりたいが、退学になるにはさすがに早すぎる。僕は友人の誰かが代行してくれることを期待した。

しかしみな、神妙な顔をつくって反省しているふりをしていた。
僕もそうした。

マリオは室内を見回し、何かを捜しはじめた。
そう、まだ一人、この時点でノーダメージの人間がいるのだった。
Tだ。
よくマイペースと言われる僕から見てもマイペースな男Tは、いまもベッドで寝息を立てている。
これだけ室内が騒がしくなっても起きないのだから、さすがとしか言いようがない。

マリオの視線が、Tの眠るベッドの、掛け布団が盛り上がっている部分に据えられた。
とうとう居場所がバレてしまったのだ。

マリオは興奮状態のまま畳を蹴り、そちらに向かって突進していく。
そして敷居を跨ぐようにしてTのいるベッドに片足をかけると、そこに飛び乗る。右手を掲げているのは、殴りたくて仕方がないからだろう。

片手を上げながら宙に浮いたその姿は、完全にマリオだった。

そう感じた直後、「ガン!」と「ミシ」が混ざったような音が、盛大に鳴り響いた。
勢いよく飛び乗り過ぎたせいで、マリオは天井側の敷居に、頭頂部を強打したのだ。

僕には見えた。はっきりと見えた。敷居に激突した瞬間、上に飛び跳ねたコインが。
しかし、笑うわけにはいかなかった。

マリオは動じることなく、Tを文字どおり叩き起こした。
何が起こったのか理解できていない様子のTに背を向け、マリオはふたたび畳敷きのスペースに戻ってきた。
こんどは無事だった。帰りは気をつけたようだ。と思ったそのとき――。

「ほ~、痛……」
上ずった声で言いながら、マリオは突然、その場にうずくまった。

激痛が遅れてやってきたのか、叱っていた生徒の手前、我慢していたのか、とにかくマリオは、立っていられないほどの痛みに襲われていた。

僕には聞こえた。はっきりと聞こえた。マリオがしゃがみ込む瞬間、キノコをとった状態の「本家のマリオ」が敵に触れてしまい、縮んでいくときの効果音が。
しかし、笑うわけにはいかなかった。

頭頂部を両手で押さえながら、マリオは悶絶している。
一番大きなダメージを受けたのは、間違いなくマリオだった。
気づけば天井側の敷居が、マリオ討伐を代行してくれていたのだった。

やめてくれ、もうやめてくれ――。
僕の忍耐力は限界に到達していた。
何度も涙した『寄生獣』の名シーンを思い浮かべることで、気持ちを紛らわせる。

マリオは、すぐに朝食会場に向かうよう僕たちに告げ、敷居から逃げるように部屋を去っていった。

頭の中に、本家のマリオが死んだときの音楽が流れたが、もう笑いを堪える必要はなかった。
僕たちは思い切り笑った。何もわかっていないTを除いて。

朝食会場に着くと、僕たち以外の席はすべて埋まっていて、みな行儀よく箸を動かしていた。そこで初めて、自分たちが異常だったのだと気づいた。

いま振り返ると、最初に一発ひっぱたかれてよかったと思う。
映画にしても演劇にしても音楽にしても、優れた作品を鑑賞するとき、対価を払うべきだと考えているからだ。

あれは間違いなく、対価を払うに値するエンターテインメントだった。

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