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「写生する」とは心で見ること

今月はなかなか俳句ができません。

何か、きっかけ・ヒントがないかと、「イチからの俳句入門」辻桃子著を再読しました。
「写生」すれば、俳句の種の尽きることはないといいますが、目で見たことをありのままに詠むということはなかなか難しく、類句類想を漂うことになりがちです。辻桃子先生は、コラムにこう述べています。

目でみて事物のありのままを詠むことを、正岡子規は写生と名付けました。写生というのはもともと、西洋絵画の技法の一つですが、子規がこの言葉を俳句に当てはめて使ったのです。

この写生という考え方は、「ただ目に映ったさまをカメラで写すように写すのだ」というふうに解釈されたために、さまざまな論議を呼びました。

けれど、人間の目は機械ではなく、目はすなわち人間の心なのだという根本的なことさえ忘れなければ、そんなことはありえないのだということはだれにもわかります。

目で見て作る、ということは、頭で理屈をこねずに、ものの本質を感じたとおりに表現しなさいということです。

写生は単に対象をなぞることではありません。外から見ることのできないものの内面、「たましい」を見つけ、それを表現することなのです。でも「たましい」は簡単に取り出せるものではありません。ですから写生を志すなら、まずそのものの現実感をひたすら詠むことに力を尽くしたいもの。

目に見える世界を通らなければ、目に見えない「たましい」のところまではいっていくことはできないからです。

そして、俳句を作るときは、できるだけ、たった今のこと、今日のこと、現代のことを詠むようにしましょうと言います。

なにか一句ひねり出さなくてはと思うと、どうしても頭は昔のことに向かいがちです。

でも、人の生き方が昔のことばかり言っているのではおもしろくないように、俳句もまた、今をいきいきと生きていることを詠むほうが、ずっとおもしろいに決まっています。

今日あったことを今日日記に書くように、今日を生きたというぬくもりが消えないうちに書き留めなくてはなりません。欲をいえば、日記のように一日の終わりに書き留めるのではなくて、絶えず句帖を持ち歩いて、なにか心に感じることがあったらすぐに書き留めてほしいのです。

このことを芭蕉は、「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」と言いました。「物の本質が光のように心に刻みつけられたら、その印象が消えないうちに句作すべきである」ということなのです。
(引用終了)

いずれにしても方向性の見えない中なので、実践してみたいと思います。