いじめとデジタルコンテンツ

「いじめをなくそう」「いじめはいけない」そう思わない人はいない。戦争は何があってもいけないんだと同義のように。

しかしながら「いじめ」はなくならない。

ある人の教育講演会で「大人のいじめがなくならない限り、子どものいじめもなくならないだろう。」との話があった。

また「子どものいじめの現場」の最前線にいる大人は教師であるということは言うまでもない。

その先生が大人同士でいじめをしているのである。神戸市の教員同士のいじめは記憶に新しい。

残念ながらいじめに気付かない教師(大人)、いじめを見て見ぬふりする教師(大人)、実際にいじめを行う教師(大人)は確実に存在する。

私はすべての教師(大人)に出会ってきた。そして全て受けてきた。

もちろん、その反対の先生も確実に存在する。

そこで鍵になるのは人間の「抑圧」の日々と「妬み」の感情ではないかと考える。

子ども達が気に入らない友だちをいじめてしまうのは、日々の生活が満たされていないことが原因にあると考える。大人も然り。

そして、なんとなく自分よりキラキラしてる人を「妬む」感情が出てきてしまうことが一つの要因として挙げられる。

そして標的になるのは「抑圧」や「妬み」の感情と程遠い満たされているように見える人。

「いじめられる方にも原因がある」説は真っ向から否定したい。

残念ながら、この悲しい感情の原因は「教育」にあると考える。みんな知らず知らずのうちに「競争」原理の中に囚われ、教師の考える子供に育てられる。

先生はほとんど先生しか経験していない大人たちの常識を植え付けていく。

何度も伝えたいが、そうでなく一生懸命に日々奮闘される先生もたくさん出会ってきた。

前振りが長くなったが、そういう打破できない現状を鑑みた時、デジタルコンテンツが助けになるのではないかと思う。

いじめは1対1で行われることはほとんどない。いじめる方は臆病なので自分1人では何もできない。「傍観者」や「共にいじめる子」が存在するから成立する。

ではその首謀者以外の子ども達はなぜいじめに加担してしまうのか。

それは、

①いじめている子と同じマインド。

②自分のいじめられたくないから。

①はどうしようもないが、②である場合、こっそりラインなどで本意でないということをそっと伝えられるのではないだろうか。ツイッターやインスタでもアカウントを作ったり。それだけでもいじめられている当事者は救われたことになるのではないだろうか。

残念ながらSNSはその逆の使われ方が多くなっている。

いじめられる側は絶対に孤独にしてはいけない。孤独になると自分が必要ないからなどとネガティブな感情を抑えきれずに悪い思考に陥ってしまう。

大人が出来ること。一番は家族が近い存在だが、近いからこそ言えないことがあると思う。見知らぬ人が助けてくれることもある。

殆どの大人はいじめられている子どもを助けてくれるはずだ。

少し前、CMでサッカーのスーパースター(我々の頃、年がばれてしまうかもしれない)の前園さんが

「いじめ、カッコ悪いよ」

という言葉を発した。影響力のある人がメディアを通してこういうことを伝える人が大きな助けとなるのかもしれない。

今でいうと、Youtuberのヒカキンさんあたりだろうか。

それ以外にも一般人と普通の子どもがマッチングされて、

「自分もこんな経験がある」「いじめは必ず終わる」「学校が全てじゃない」など子ども達の声にならない叫びを大人いや高校生大学生がいいのかもしれない。世代の枠を超えて繋がることが出来るのではないかと考える。

悲観してネガティブになるより、絶対良い方向に進むと信じて生きる方が楽しいに決まっている。

そんなことわかっているのに大人である私たちも出来ていない。それでも、人生って捨てたもんじゃないということを少し先を生きただけの人が救えるのではないだろうかと考える。

そういう社会を構築していくことを想いながら、今も尚、日々、幼児期の無垢な子どもたちに、人としての尊厳が当たり前に認められ、大人の顔色を見ずに、自分で行いたいことを自分で決定できる教育施設をを創り上げたいと奮闘していく。


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