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AI美空ひばりとVRで亡き娘に再会する事と故人を呼び寄せる義実家の宗教がリンクした

IT技術の進化は目まぐるしい。色々な新しい技術の話を目にするたびに、これからの未来に想いを馳せる。

最近特に気になるのが、VRやARを使った仮想と現実の融合。その中でも、死者と現世の人間を技術が繋ぐ事について書いてみたくなった。

(前置き:私は特定の宗教を信仰する心もなければ、特に興味を持つこともなく、心霊現象も死後の世界も全く信じないタイプの人間です。なので宗教用語等の使用でおかしなことがあってもご容赦を…🙏)

AI美空ひばりを見た時に感じたこと

AI美空ひばりとは、4K・3Dホログラム映像で等身大の美空ひばりを蘇らせると言う企画。2019年の紅白にも登場し賛否両論で随分話題になったので、知っている人も多いと思う。詳細はサイトで見てもらえばいいので、ここでは割愛。

私がこれをはじめてみたのは、2019年9月29日のNHKスペシャルだった。想像以上にリアルにうごく故・美空ひばりさんの姿と、それを涙ながらに見つめる人たちに、技術進化の凄さ以上に私は恐怖と不安を感じ、こんなツイートをしている。

例えば、すでに故人になっている歴史的指導者や宗教家の姿を再現すれば、それを簡単にテロや社会の分断にも使えてしまうのではないかと思ったのだ。

それに死者の尊厳はどうなるのだろう。生前に絶対言わなかったようなことまで、簡単に言えてしまうではないか。私が故人の立場なら、とても不愉快だろうなというのが素直な感想だった。

VRで亡くなった娘に再会した母親

数日前に、いつものようにTwitterのTLを眺めていたら、「死んだ7歳の娘にVRで再会した母親」という動画が流れてきた。

もとは韓国の番組の企画か何かのようで、グリーンのスクリーンの前にVRゴーグルを付けた母親が立っている。映像では「どこにいるの?」と呼びかける母親の前にCG映像(これが結構リアル…!)の娘が表れて「お母さん、すごく会いたかった」と言う。それを見て、母親が手を伸ばし(映像なので当然触ることはできないのだけど)泣き崩れるのだ。気になった人は、「VR 娘」とでも検索して直接見てもらうのが早い。

正直、これをみたときの私の感想は「ついにきたか」だった。なぜなら、AI美空ひばりを見た時にこんなツイートをしていたからだ。

リアルな故人の再現ができるようになった時、かならずそれを実現する人が現れると思っていた。そして、それを恐ろしく感じると同時にツイートしていた。

故人を呼びよせる義実家の宗教

ここで、うちの旦那方の宗教の話をしたい。某田舎の土地独自の仏教系らしいのだが、嫁として関わるようになった私から見ると、とても変わって見える。

葬儀や法事、毎月の命日などにお坊さんがやってきてお経を上げるのはよくあるパターンなのだが、その最中やその後で、お坊さんがおもむろに「いま…〇〇さん(故人)が来てくれています…!」と言い出すのだ。

私の父方や母方の実家の宗教も仏教系だが、こんなのは見たことない。お経のあとの説法はあるけど、時事ネタであったり故人の思い出話であったり、当たり障りのない話をしていたと思う。実家には仏壇がなかったので田舎の法事に参列するぐらいであまりハッキリ覚えていないけど、少なくともお経の途中でお坊さんがハッとして「いま…○○さんが…!」などとは言い出さない。

義実家にも、義父が亡くなるまで仏壇はなかった。そのため、お坊さんがやってきたのは、義父の通夜から。もともと義父実家の信仰する宗派のお寺だそうで遠方から駆けつけてくれているらしいけど、仏壇もない家の嫁である私にはよくわからない。そんななかで突然やってきたお坊さんが「〇〇さんが来ています…!」とやり始めるのだ。

オカルト信仰を微塵のかけらも持ち合わせていない私が、初めてそれをみたとき、驚き訝しむのも当然だと思う。「なにこれ?大丈夫?怪しい宗教じゃないの…?」「そのうち高いツボとか仏像とか売りつけられるのでは…?」とっさにそんなことを感じた。

通夜と葬儀の席でお坊さんが「○○さんが『もう心配するな』といっていましたよ」「奥様である××さんに『ありがとう』と言っています…」と語るたびに、私の心中は(なんだこれ…えっ、勝手に故人の言葉を代弁?えぇ…。)とざわついたけど、義母も義姉も頷いて聞いているし、旦那方の親戚一同も真剣な顔で聞いている。あとから親戚の皆様が歓談するのを聞いていると、それなりにみんな信じているようで、口々に「兄貴が楽になってよかった」なんて、お坊さんによる故人の代弁の感想を話したりしていたので、末席の嫁の私も愛想笑いをしつつ、神妙にしていた。

あとでこっそり旦那に「あれ、なんなの?」と聞いてみたが、旦那自身は「俺は全く信じてないで~」といいながら、「まあ、ええんちゃう?好きにやらせておけば」と気にもとめない様子。

確かに、連れ合いを亡くしたのは義母だし、実父を亡くしたのは義姉だ。悲しみの時間の過ごし方はいろいろだし、信仰も自由だ。法外な値段の壺や水晶玉を借金していくつも並べはじめたりするわけでもなく、実子である旦那が気にするなと言うなら、もともと他人の私がとやかく言うことではない。そのまま静観することにした。

何度もやってくる坊主と故人

葬儀の後からは、月命日や一周忌など、頻繁にそのお坊さんはやってくるようになった。家にくると、まずは家族と雑談をし、その後お経をよみ、その途中や直後にやっぱり「〇〇さんが来ています…!」をやるのである。

お坊さんに呼び出された亡き義父は、そのたびに「A子は風邪にきをつけろ」「B男は腰にきをつけろ」「△屋のおはぎが食べたい」「親戚を呼んで食事に行け」などと話していると言う。

私から見れば相変わらず「なんだこれ?」の世界でしかないのだが、義母も義姉も、毎回いそいそとお坊さんを迎える準備をし、ありがたがって話を聞き、そのあとは義父(といっても、話すのはお坊さんだけど)の言う通り、おはぎを買いに走ったり、親戚で食事に出かける段取りを整えたりした。

私はそのたびに、他人の信仰…他人の信仰…と心を無にして笑顔で振る舞いながらも、もしいま自分が死んだら、このお坊さんにある事無い事好き勝手に私の言葉として語られるのか…耐えられんな…との思いで少し距離をとりつつ眺めていた。

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代弁の下手な坊主と癒やされる遺族

そんな月日が流れて2〜3年が過ぎた頃から、あれだけ葬儀のときからお坊さんの話をうなずきながら聞いていた義母や義姉の口から、「あれ、どこまでほんまかなぁ~」という言葉が聞かれるようになった。お坊さんによる代弁を疑い始めたのである。

でもそれも仕方ない。この数年間、私も遠くから眺めていて感じていたのだが、とにかくこのお坊さんの故人の代弁がめちゃくちゃ下手くそすぎるのだ。

お坊さんにより、いまここにやってきているという義父が、最初はスーツ姿だったはずなのに話の途中でいきなり短パン姿になっていたり、生前に好きでもなかったものを欲しがったり、義父の語ったという生前の思い出話が家族に全く心当たりがなかったり…とにかく矛盾やツッコミどころだらけなのである。ちなみに私は短パンを履いた義父の姿など見たことはない。

この頃、ある筋から小ネタとして旦那が聞いてきたのだが、じつは我が家に来ていたこのお坊さん、宗派のなかでもこの「故人の代弁」が下手なことで有名な人だったらしい。どこの業界にもいる、職業技術に進歩のないタイプというやつ。

はじめの頃は、お坊さんの到着をいそいそと準備して待っていた義母も義姉も、最近では連絡があると「また来るって言うんや…」と明らかにため息をつき、言葉の端に渋々感を滲ませてしまっている。こうなっては、お坊さんの話す「故人の代弁」も、もはや大した効果もないだろう。

故人の代弁と低クオリティの価値

VRで亡くなった7歳の娘に再開した母親の動画と、それに対する様々な意見を合わせて読んだとき、変化していった義母や義姉の姿を思い出した。

あれほど私には胡散臭いものにしか見えなかった「故人の代弁」も、大切な人を失って喪失感に暮れる人にとっては、残された日々を生きるためになんとか動くための後押しという意味があったのかもしれない。突然の喪失感を緩和し、大切な人のいない生活を少しずつ受け入れるためのクッション材のような、心を守るための昔からの知恵だったのかも。

故人がやたらと、体に気を付けろだとか、何処そこへ親戚と行けなどというのも、家族の喪失をきっかけに体を壊したり、無気力から孤独に向かうのを避け、他人とのつながりを補強するためだと思えば、納得できる。

遺族の悲しみも喪失感も、完全に消えることはなくとも、時間とともに少しずつ変化していくものだと思う。思い出も遠くなり、この世にはすでに存在しない人のエピソードは増えることもなく、繰り返しやってくるお坊さんの話もマンネリ化する。徐々にお坊さんの語る故人の言葉が、記憶の中の故人と重ならなくなるのも必然だろう。いわば、故人の代弁の低クオリティ化だ。しかし、この低クオリティ化していくことこそが、故人の不在を緩やかに受け入れるために必要な経緯なのかもしれない。

この話をnoteに書くまえに、義実家の宗教と故人の代弁の意味について旦那に私の考えを伝え、意見を聞いてみた。

そんな事はとっくにわかっていたと言わんばかりに「そうやで。一応意味はあるんやで」と旦那が涼しい顔をするので、「じゃあやっぱり、あのお坊さんのクオリティの低さも、悪いもんでもないんだねぇ…」と私がつぶやくと「だとしても、あれは下手すぎ」と一刀両断していたので笑った。

AIやVRは未来の宗教になるのかもしれない

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話を戻そうと思う。

お坊さんによる故人の代弁を聞いて、耐えられないと感じた私と、AIやVRで故人を蘇らせた映像を見たときの不安感はとても近いものだった。私はあの技術で故人を蘇らせることには大きな危険を感じる。自分の言葉を死後に誰かに勝手に語られることにも強い嫌悪感を感じる。

その一方で、故人の代弁を信じて頷きながら緩やかに変化していった義母や義姉の姿を思い返した時、私の死後、自分の家族が私の喪失を受け入れるために故人の代弁が必要なのだと言われたら、ちょっとぐらいなら勝手に代弁されてもいいかな…とも少し思った。

VRで死んだ7歳の娘に再開し泣き崩れた母親の映像から、AIやVRで故人を蘇らせることは、新しい宗教の形になるかもしれないとも思う。しかし技術は進む。故人の再現はよりリアリティを増していくだろう。低クオリティ化していくことが大切な人の喪失を受け入れるキーになるのであれば、進歩しリアリティを増す技術は何をもたらすのだろう。

それに、「勝手に代弁されてもいいかな」とさっきは書いたけど、それは代弁する人が残された私の大切な人たちに不利益(高価な壺とか仏像を買わせたり、社会的に孤立させたり)をもたらさないということが絶対条件だし、信用できる相手でないと頼めない。その土地に根付き、その家と長く付き合ってきた宗教や菩提寺という存在は、その信用を担保するものだったのだろう。

AIやVRで故人を蘇らせる技術は、この信用の部分をどう乗り越えていくのか。きっと故人の代弁を望む人はたくさんいる。手段は変わっても、人が求めるものはさして変わらないのだ。いくらでも悪用ができる場面で、その技術はどう使われるのか。とても興味深い。そしてやはり恐ろしい。

ところでまた、来週は例のお坊さんが来るらしい。義母のため息を聞きながら、私がもし今死んだら、とりあえず代弁はもうちょっとだけ上手な人(でもそこまで上手じゃない人)にやってもらえないかなぁ。

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