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伝えることとその記号化 〜媒体特性と好みの問題とかについての徒然〜

いつだったか、たぶん新型感染症で行動が制限され始めた頃だったかと思うけれど、こういう言説が流れてきてハッとした。

いわく、「文字による表現は、映像や音声が遠方へ封じ込めて伝達できないから発達したのであって、現代はそうではないから必要ではない」といった趣旨。

たしかに、原始の昔から映像や音声をなんらかの方法で閉じ込めて、運搬して、別の場所で展開する……という機能が人間に備わっていたら、文字は存在しなかったのかもしれない。鳥の鳴き声・狼の遠吠え・ゴリラのドラミングが何キロも向こうまで届いて、なにかを知らせているらしいから、遠方に情報を届けるというニーズは大変に根深い(あれらにはどれくらい言語的性質があるのだろうか気になる)。

通信技術としての「文字」に関してはそうだけれど、では情報伝達において「映像では伝えられなかった」から「文字が発達した」かというと、そこは怪しいのではと感じる。
発掘された最古の文字が紀元前4000年ごろのものらしいけれど、洞窟の壁画とかになると「6万年前」「4万年前」というのがごろごろ出てきて、歴史の深さが段違いだ。絵が簡略化・抽象化・小型化されて、文字らしきものになり文字になる、その間数万年あって、絵を用いたコミュニケーションも数限りなく行なわれたと想像できる。それを運搬するかどうかは置いておいて「文字を発達させてきた彼らは、文字以前でも「映像による情報伝達」に親しんでいた」とは考えていい気はする。文字の方が後輩だ。

視覚情報は絵に落とし込めるとして、音声情報は目に見えなければ形もなく、絵にかけない。表音文字は、形のないものに形を与える約束として発明されたに違いない。想像の枝を伸ばしてみると、絵をどちらかというと平面的に描く東アジアに「漢字」圏があり、写実的に描く欧州に「アルファベット」圏が築かれたのは、相関があるのだろうかと考えてみたくなる。例えば「壁画に残した視覚情報が十分な地域が、音の定着として表音文字を発達させるエリアになった」……みたいな。言葉の発達、視覚伝達手法、表音文字と表意文字・表語文字の伝播、が入り乱れる様子をしっかり学んでみたい気もする。

ともあれ文明が順次進んで、絵を抽象化するだとか、音を図示するだとかによってローコスト・省スペースに記号化できるようになると、運搬輸送して遠隔地へ伝えることができるようになる(定着させる媒体が木葉なのか紙なのか電子信号なのかは問わない)。
この部分が原始から解決されていて、絵や音の送受信が最初からできていたら。
一体どうなっていたかを想像することは、意外と難しい。難しいというよりは、SF的跳躍力の問題になってくる。目、耳、以外に送受信用の器官が備わっているとか、または目・耳が光学・音響学センサーではない(地球の裏側でもセンシングできる)とか、さらにまたは目・耳はそのままに、ラスコーの昔から映像・音響を転送するだけの文明は確立していた、みたいな話になるからだ。このテーマでのifはほかにも考えられるだろうし、きっとそういうSFガジェットを用いた文学作品はすでにいくつもあるだろう。
楽しそうだが、馬鹿にはできない。
冒頭の言説は、時期的にリモートワークやZoomなどに触れてみてその新鮮さに霊感を受けたので述べてみた、といった気軽なものだろうとは思う。そこから逸脱して、ある程度真剣なものとして検分してみたい。

文字がなかったらどうだろう。

映像で伝えられること、音声で伝えられることは本当に多い。多くの場合、意思疎通はこれで事足りる。だから、それが遠隔地に伝えられるようになった今、代替に過ぎなかった文字は不要になっていくだろう、というのが冒頭言説の立場だ。

言葉は、脳内で思考された後は、口から音声として出力するか文字として図示される。時代を経ればもっとバリエーションが増えるかもしれないが、いまのところはこの2経路のどちらか。
思考が「言語」を介して音声化または図像化される、この2経路のうち後者=文字が不要ということだが、そうすると思考は音声のみによって出力されることになる。

最初に「ハッとした」と書いたのはこの点だ。

「文字が廃れても大丈夫って、その場合考えたことをすべて声に出すのだろうか。口にするより文字が好ましいと考えた場面はこれまでなかったのだろうか?」
本当に?
率直なところ、ちょっと恐怖した。私には重要なものが、誰かにとっては無くてもいいらしい、その無邪気さに触れた時の恐怖。そして「文字いらないのでは?」と言えてしまう文化圏が存在することへの恐怖。
思考、思想信条/心情を表明する時、もちろん音声で伝えても良い。でも文字(手紙など)で伝えたい時もある。両者は可換ではない。

映像・音声で多くのことが的確に伝えられる、これは間違いない。ただ大きな束縛もあって、その情報を受領するのに基本的には実時間分かかるという点だ。早送りには限界があるし、要点をかいつまむということが難しい。時間軸上に並べた情報を、受け手側もシーケンシャルに受け取ることを強要する。最近のサービスでは、ムービーをアップロードすれば自動的に要点にインデックスが打たれたりするものもあるけど、これは基本的に文字によるタグづけなので、今回のテーマからするとちょっと邪道枠となる。

文字表現は、言ってみればその逆の適性を持っている。インプットする速さはある程度受け手で可変でき、速く受け取ろうと思えば映像音声の早送りの比ではない速さで「要点のみ拾い読み」に優れる。反対に、前後関係を厳しく確認しながらゆっくり精緻または味わうように読み進めることもできる。残念ながら映像・音声素材は、現状は再生にオペレーションが伴うため、文章と比べるとこれが難しい(それを補って余りある情報量がそもそもあるので、大きな問題ではないけれど)。映像・音声と比べて、シーケンシャルであることにあまり縛られない。摂取スタイルに対して受け手の自由度が高い。

言葉で伝えるか、手紙で伝えるか、という話しはこれらと比べれば実利的ではなく、要するに「選択肢は多いほうがいい」といえばそう。けれどここは「気持ちの問題」でもあって、気持ちをどの手段で伝えるのが最適かという表現媒体=選択肢は「多いほうがいい」で全てだ。そこに理屈はない。実利の話ではない、最適をスパッと見出せないからこそ、伝える経路が一つあれば十分、とはならない。

有名人の動画配信のチャットなんかはどうか。文字の廃れた世界線では音声のみがリアクション手段だ、まず「やかましい」ことだろう。そして、少数の発する人と、大部分の沈黙の聴衆。リアクションが伝えられる双方向性が魅力のネット配信なのにさしてテレビと変わらない。うるささ問題以外に、声では無理でもテキストならリアクションに参加できるという視聴者は多いだろうが、これが完全に再生カウントのみの透明な存在になる。
映像・音声のみだったら成立しない文化がそこにはある。

***

話はそれるけれど、
受け取り時の速度可変については、言葉と図像が組み合わさっている「漫画」が最高の媒体で、もっとも圧縮して受け取る場合は拾い読みを上回る「絵だけ」で読み進めることも一応可能だし、一方でセリフ・漫符やタッチの一本一本、コマ運びの前後を行ったり来たりでとんでもなく時間をかけるなど、極めて多次元的に読むことができる。この受け取り時のリズム・テンポについて、映像・音声は束縛が強く、小説・漫画は受け手がそこを再構成しながら咀嚼できるところに、独特の楽しみがある。

そういえば、映像作品の視聴体験の話題で「早送りで見た」と言われることがあるが、それは果たして見たと言えるのか。いや、もちろん情報過多、コンテンツは人生複数回分あるこの時代、なにをナイーブなことを言っているのかという話ではある。可処分時間が限られる中、「1本摂取して1本は全く触れない」よりは「両方とも倍速にして2本摂取する」という判断もあるとは思う。

でもやっぱり、ある時間軸に沿って作り込んだ作品を、速さを変えて見るというのはどうしても歪めている感が否めない。少なくとも「その作品」と「倍速で見た作品」は別くらいには思いたい。
映画もそうだ。映画館というスクリーン+音響空間で体験されることを見込んで作っているのに、小さい画面、頼りないスピーカーで、しかも場合によっては加速しているかもしれない状態で、観賞される。
それは「観た」とは言えないのではないか。でも「見てない」とも言えない。難しいところだ。
ゲームのプレイ動画とかプレイ実況とかであれば非常にわかりやすく、あれは無数のプレイの可能性の一つを摂取したということであり、作品の「クラス」と「インスタンス」の関係だと思えばいいのかもしれない。
映画をスマホで倍速で流したのを「観た」というのであれば、ゲームのプレイ実況配信で一緒にエンドロールを見た体験を「プレイした」と言っても良さそうなものだ。閑話休題。

***

ある情報なり表現したいコンテンツなりがあるとき、それを定着させる「媒体」には、向き・不向きがある。これはなにもゼロイチではなく(それでは向き・不向きではなく可・不可になってしまう)、最も向いている・次点で向いている……といった話になる。多媒体に展開できるのであれば検討してもいいと思う。ただ、それぞれの表現媒体に沿った形で提供するというのは“翻訳”作業が必要になるため、ホイとできるものではない。

時々、月刊CGWORLDという雑誌から仕事をいただく。CGに関する技術解説誌だ。もちろん買って読むこともある客(?)でもある。
いまやCG自体は関連しない産業を探す方が難しいくらいさまざまな分野に使われているので、「CG」を一つのジャンルとか業界としてとらえていると重大な誤認を起こしてしまうが、この雑誌はそんな「専門ジャンル」「専門業界」に依拠しない「専門誌」という立ち位置だ。それもあってか、例えばアニメや映画を扱う時に声優やキャラクターデザインや版権イラストで誌面を彩るのは常套手段だが、あまりそういうコンテンツには走らない。あくまでも、作品なりプロダクトの制作現場やプロセスについての情報を媒介することにフォーカスしている。絶対にやらないというわけでもないだろうけど、他誌もやるような攻め方は土俵が違うといったところか。それが当該雑誌の限界であり面白くなさであると同時に、「そっちは任せた、こっちは任せておけ」という面白いところであると思う。
言ってみれば媒体特性の話で、特性に合っていないことはあまりやっても意味がないし。

「技術解説」と冒頭の話題を掛け合わせてみよう。
文章と映像音声=動画チュートリアルでは、手順を伝えるという意味では圧倒的に後者が優れている。操作手順が画面に映っているので、音声がなくても受け取ることが可能(言語を問わない)という点も素晴らしい。
ただし、「手順を伝える」チュートリアル用途に限っては、という条件を付けたい。操作手順に始終する話であれば「受け手自身が実施する・追体験する」ことが前提であり、シーケンシャルであることこそふさわしい。それが、資料性が高くなればなるほど今度は足を引っ張ってくるように思われる。現在のところ人類はタイムライン上のコンテンツに対して「シークする」(再生位置をさわる)「10秒もどる/すすむボタンをつける」くらいでしかアプローチできない。コンテンツを楽しむ分にはそれで十分のように思われるが、こと資料として向き合う場合にはそうではない。上述のように、こういうときにはむしろシーケンシャルではなく縦横無尽に読みたいのだ。必要な箇所にパッと飛びたいのだ。そのためにはタイムラインが今以上に扱いやすくなる必要があるし、かなり入念に索引が打たれていなければ参照しやすさでテキスト媒体にかなわない。動画という媒体の特性とコンテンツが噛み合わない。
自動文字起こしはそれを解消する福音となればいいが、話者の喋り方の適性とか環境音の少なさとか、綺麗に起こしてくれるハードルはまだまだ高い。話者が複数ともなるとガタガタで、無いよりはいい、くらいのものだ(ここは「今は」という話なので、技術の進歩に期待したい)。

資料性が高く「これは文字で提示してくれたほうが受け取りやすいのに……」という内容であっても、動画で投稿されているのを目にすることが増えてきた。動画を作成し世に出すハードルは目覚しく下がっているし、Youtubeは再生登録者・再生時間に応じて収益化してくれる。自分のアウトプットをいかに換金するか、というのは近年の重要なテーマだし、それにあわせてプラットフォーム側がうまくやった、ということなのだと思う。
提示したいそのアウトプットに合わせて、これはテキストか?動画が好ましいか?と、一歩立ち止まって考えて欲しい気はする。

……などと思ったけれど、いや、考えないでしょう。

そういえば、同人誌というものを時々作る。ここまで書いてきたような「技術情報の中でもテキストであることが好ましい情報」が元来好きなのと、紙の本が好きなので作り始めた。先日まで純粋に情報だった情報が、ある日突然物体化して手元にやってくる瞬間、手に持った瞬間の情報量の爆発は、何度体験しても楽しい。紙に刷ることを至上目標に掲げているので、動画チュートリアルだった方がよかっただろう記事も振り返ってみれば多い気がする。そこに冷静さはない。同人誌なので。
一歩立ち止まって考えて欲しいって、いや、やはり考えないでしょう。それはそう。

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ひとが文明を築いて、その上にぽつりぽつりと文化が芽吹く。ただ「明らかにする」、見つけるのみではなく、「文にしていく」、記号化していく、豊かにしていこうとする前向きな感じが好きだ。その概念に「文化」という字を当ててあることが、なんだか好きだ。


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