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科学と宗教の相互補完

科学と宗教というのは、互いに相容れないように見えるかもしれません。

例えば、何か主張をしようとするとき、「科学的」と言われると根拠がしっかりしていて、誰もが納得できるものであるという印象をもつのではないでしょうか。

逆に、根拠が怪しくて、よく分からない胡散臭いような話に対しては、「何かの宗教?」みたいに言うような人もいると思います。とくに日本では、特定の宗教団体に属するような人も少ないので、宗教と言われてもピンとこない人が多いかもしれません。

この互いに相反するようにみえる科学と宗教ですが、どちらも「真理の探究」という観点から見たとき、同じところを目指していると言えるのではないかと思います。

科学(とくに自然科学)は物理法則など、目に見える世界を中心にして真理に迫ろうとしているのに対して、宗教は目に見えない精神的な世界から、真理を探ろうとしていると考えられます。

つまりそれは、例えば仮に地球の裏側に「真理」があるとしたら、「東回り」で行こうとするのが科学であり、「西回り」でたどり着こうとするのが宗教なのではないかということです。

そういう意味で、科学と宗教は相反しているようにみえるかもしれせんが、実は同じところに向かっていると思えてならないのです。

以下、ウィキペディアから、ノーベル賞受賞者でもあるドイツの物理学者「マックス・プランク」のページにある記述をご紹介しておきまます。

1932年の著書『科学はどこへ行くのか』の中で、宗教と科学には真の対立はありえず、人間がその力を完全なバランスと調和を伴って発揮しようとすれば、自らの宗教的な部分を認識して伸ばさねばならず、このことは真面目で思慮深い人なら経験のあることだろうと述べている。
(中略)
1937年5月の講演「宗教と科学」では、宗教的人間と科学者を取り上げ、両者は普遍的秩序を求めている点では同じであると論じた。そして、両者は互いに補完しあうものであり、各個人は、宗教的な側面と科学的な側面の両方を発達させるよう努めなければならないと主張した。
※ウィキペディア「マックス・プランク」より引用

この記述によれば、歴史的な物理学者の口から、科学も宗教も「普遍的秩序を求めている点では同じ」であるという言葉が出ているわけです。無視するわけにはいきません。両者はともに「真理の探究」をしているということでしょう。

アインシュタインも「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と述べたといいます(ウィキペディア「アルベルト・アインシュタイン」より)。

つまり、仮に探求すべき「真理」があるとしたら、そこに向かうためには、科学と宗教は相互補完関係であるべきであり、私たちは両方をうまく使いこなさないといけないということです。

「まぁ、科学は分かる。けど、宗教とは何ぞ?」

そんな方もいらっしゃるかもしれません。

ここでいう宗教とは、何か特定の宗教を指すものではありません。「目に見えない精神世界を扱う思想体系」くらいの解釈でいいと思います。そこにどんな神様がいるとか、どんな教義があるとか、そんなことは一切関係ありません。なんなら「スピリチュアル系」のような表現でもいいかもしれないです。

なので、私はスピリチュアル系を否定するつもりはありませんし、そういうものも大事だと思っています。

ただし、ここでけっして忘れてはいけないのは、科学との相互補完関係を維持することです。これを抜かしてしまった「スピリチュアル系」は、ただの妄想になってしまう可能性もあるので注意が必要です。

おそらく、科学だけでは真理にたどり着くことはできません

いろいろなものを証明してくれる科学は、とても素晴らしいものになります。私たちが知らないこと、分からないことを目に見えるかたちで、体系的に表してくれます説得力も抜群です。
(中略)
しかし、科学も万能ではありません。実際のところ、科学の世界も分からなことだらけだったりします。
※「この世界のはなし(1)~ゆらぐ世界~」より引用

しかし、だからといって、科学的見地を無視した宗教的思想・発想、スピリチュアル的な考え方だけでは、物事を見誤ってしまう可能性があります。

科学と宗教は、相互補完関係にある。

常にそういう観点をもちながら、科学と宗教(的な思想・思考)を駆使して、生きていきたいものだと思います。

私は、それがおそらく「唯物論」や「唯物史観」に支配された人々と渡り合うための武器になるのだろうと思えるのです。負けてられません。

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