人はモノに何を見るか

モノというのは私たちにとって何を意味しているのか。最近そんなことを考える機会がありました。特段詳しいとかではないので、まとまりはないですが記事にしてみようと思います。ちなみに、2021年初記事です。年明けは筆が走らず、月末になってしまいました....

実用的なモノ

まず漠然と頭の中にあったのは、私たちの営みの中にある仕事を楽にしてくれる存在としてのモノです。遠くに移動したいけど、歩くのは大変。馬、馬車、自動車、バイク、自転車、飛行機と色々とありますが、移動を楽にするという側面を満たすために生まれたモノだと思います。SNSというバーチャルなモノだって、交流の手間を省いてくれたり、情報取得を楽にしてくれたりという一面があると思います。楽にしてくれるというのは、モノの実利的な側面です。

生活の中で求められる仕事というのは、時代とともに移り変わっていくわけでなので、実利的なニーズもどんどんアップデートされていきます。自動車は移動手段でしたが、そもそも移動によって何を成したかったのかという、根本的な需要を満たすものが現れてきます。狩りをするために、誰かに会うために、知るために、遠くに行きたいという欲求はインターネットの普及や物流の発展によって、必ずしも個人の移動を伴わなくても満たされるようになってきました。べつに良いとか悪いとかいう話ではなく、時代が変われば状況も変わるというだけの話です。

体験するためのモノ

ここ数年、モノからコトへというフレーズを頻繁に目にします。このような文脈で体験というと、実益から離れた部分を指しているのかなと感じます。具体的な仕事を代替するためのモノから、主観的な経験を満たすものとしてのコトへニーズが移ってきているという感じです。

個人的にはモノからコトへという言い方は、相対的なコトの価値を強調しすぎというか、新しい何かに祭り上げている気持ち悪さを感じます。昔から、私たちを楽しませたり感動させたりするようなモノやサービスは無数にあったわけです。また、多くの体験はモノに紐づいていると思います。音楽を聴くのにはなんらかの装置が必要ですし、旅行に行くにも乗り物が必要なのは変わりません。コトを強調しているのは、ただ音楽を聴くだけじゃない、ただ自動車で移動するだけじゃない、といったように、基本的な目的は満たした上で、より満足のいく体験を上乗せしてあげようというのが実際のところだと思います。体は満足したから、心を満たしたいということなのでしょうか。

しかし、モノもコトも、どちらも比較的短い時間感覚で語っているなと思い感じます。確かに、マーケティングや開発の観点で言うと、目先の快楽を作り出す方が、人生を通した幸せを考えるよりずっと簡単だからそうなってしまうのはしょうがないのかもしれませんが。そう言った意味では、結局は20世紀に引き続き消費社会は続いており、ちょっと形を変えただけに見えます。闇雲な体験の消費は、自らの注意と時間を消費している気がします。体験というより、快楽を求めるための反射的な作用に時間を消費しているのではないかと思うわけです。

しかし、世の中には、そして誰にでも、もっと深いモノとの関わりが存在していると思います。例えば、30年間大切に飾ってある娘の写真にはどう言った意味があるのでしょうか。そこには、写真という紙を通して、関係性が開けているわけです。それに、何十年も使った、道具というものも特別な意味を持つ時があります。それは、革製品が良い風合い風合いを持つという審美的な意味だけでなく、長い時間関係を持つことで作られる愛着もあります。

なぜ、なんでもないものでも大切にするのでしょうか。実際、短期的なニーズを埋めるという観点では説明できないことも多くあると思います。質の悪い電化製品でも、安物のプリントの絵でも。最初から大切なものもあれば、持っているうちに大切になるモノもあります。

ポジティブ心理学の大家であり、フロー理論を提唱したことで有名なM.チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)の著書「モノの意味」では普段ビジネスで考える意味でのモノまたはコトからすると、個人的で長期的なテーマでモノの意味が語られています。断片的ですが、少しだけ触れてみようと思います。

人間とは?物とは?

まず、彼はこの本の最初の方で、人間とモノの双方に関して定義を与えています。特に私が重要だと思った一節があり、良い経験とは何かについて述べられています。

個人にとって経験の最適状態は、複数の意図が相互に葛藤状態にないことである。この内的調和状態では、人は自分の意図の残りの部分と調和した目標に心的エネルギーを自由に投資することができる。この状態は主観的には、エネルギーの高まり、統制の高まりと感じられる。この経験はやりがいのある楽しいものとみなされる。先行研究において、この生き生きとした行為と内的秩序状態は「フロー」経験として詳しく触れられている。(p.12)

ここで、内的調和状態という概念が出てきます。ケーキを食べるとき、ポジティブな感情が得れるわけですが、ダイエットを気にしている人であればネガティブな感情も現れます。ケーキを食べたいとダイエットしたいが葛藤してしまうわけです。そんな状況でケーキを食べた経験は、必ずしも良い経験ではないということでしょうか。

本の中に出てきますが、快楽良い経験というのは区別して議論されなければいけないのだと思います。葛藤している状態でも快楽は得られるのですが、楽しさや幸福が得られるかといったことが、どうしても企業活動では疎かにされていますよね。そして、そのような快楽の追求は人生に何をもたらすのでしょうか。

続いて、物に関して彼はどのように定義しているかを見てみます。

私たちは物を、意識の中で識別可能な属性を有する一定量の情報、つまり一貫したイメージやラベルを喚起しうるだけの整合性あるいは内的秩序を持ったパターンとして規定する。そのような情報の単位は、記号論の言葉を借りるならば《記号》ということになるだろう。こうした見方に立つと、シンボルは一種の《記号》ー他の解釈記号に対する物(質、物質としての物、観念)の表象として定義される記号ーにすぎない。記号としてみたとき、物は客体性という固有の特質を帯びる。つまり、それらは同一個人内では時間を超えて、そして異なる個人からは共通の反応を引き起こす傾向がある。情動や観念などの他の記号に対して、物は独自の具象性と永続性を備えているように見える。もちろん、物のこうした特性はその物理記号に基づいている。それゆえ、古代人の作った人工物は、彼らの会話や信仰に関する記録がなくても、その文化の観念像を今なお伝えてくれる。(p.17)

前半は現象学とか認知科学っぽい感じで、モノがそれとして認識できるような特性(情報)を持っていると説明しています。後半で説明されているのは、何らかの安定したシンボル(語源はsym-balleinで結合するという意味を持つ)として認識されている物は、色々な人が使っても似たような反応が予想され、同一個人の中ではある程度似たような反応が再現されるということです。関わり方の形は多種多様と言えども、個々のモノが持つ特性みたいなものはあって、ある一定の範囲の反応を引き出という感じです。直感的にはそんな気もしますが、この本のデータからはそこまで言い切れるのか言い過ぎな気もします。

それでも、面白い考察はあります。次の文章が、この本全体を貫く問題意識になっていると思います。

物は人間の行為や思考の範囲を拡大したり、制限することで、人間のなし得ることに影響を与える。そして、人間のすることはその人がなんであるのかということと大いにかかわっているため、物は自己発達に決定的影響力を持つ。だからこそ、人と物との間に存在する関係の型を理解することが極めて重要なのである。(p.64)

人間はモノを使っているわけですが、それによって広い意味で人間が拡張されるわけです。一方で、制限されることもある。逆に言えば、人間が使っていると思っているモノが人間自身に影響をもたらしているわけであり、下手をすればそこに罠も存在するわけです。そのような、人間→モノという一方通行の想定だけでなく、人間⇄モノという相互的な関係に注目する意義が見えてきます。

しかし今や、アメリカ社会全体が余暇文化の様相を呈している。車や家、他のレジャー用品が、私たちの自己定義を規定するモノの一部になっている。さらに、私たちを囲む家庭内の持ち物が、私たちの注意を構造化し、私たちの意図を反映する象徴的な生態系を構成し、所有者の人格形成に役立っている。(p.118)

人間が注意を払うのにはエネルギーが必要です。それは有限であるので、注意を向けることのできる対象も有限です。好むかどうかにかかわらず、身の回りにあるものには注意のリソースを割くことになり、注意を向けるということは影響を受けることになります。また、モノというものはランダムに自分の周りにあるわけではなく、それぞれの人の周りにはあるモノの集団が安定して存在していると思います。そういったモノたちに注意を向けるということは、安定した注意のパターンが形成されることになり、そういう意味で人格などにも影響するということだと思います。

たしかに、それはそうだよねって思います。最初の議論で、モノに仕事を代替させたと言いましたが、代替させたことで生活様式は変化したわけです。生活様式の変化は思考の変化にもつながります。結局、自分が生活している空間、モノや人との関係から、自分という存在が再定義されてしまうのでしょうか。どことなく議論が、アクターネットワーク理論(ANT)みたいになってきました。

おわりに

この話をどう締めようか迷いましたが、いつも通り投げっぱなしにして終わろうと思います。僕が思ったのは、やはり企業がモノを作るのに短期的な視点でしか考えていないのではないのか、ということです。最近はSDGsで耐用年数が長い製品が出たり、リペアしてくれるサービスも登場して、長く使ってもらうというコンセプトが次々出ています。でも、長く使うという部分以外は従来のコンセプトのままで、結局は短期的な快楽に訴えていると思っています。せっかく長く使うことができるのであれば、長い時間でしか形成されない関係をどういう風にデザインするか、そんな考え方をするのも面白いのかなと思います。

強調しておきますが、デザインしたいのは関係です。色合いが良くなるとか見た目的な部分ももちろん含まれますが、もっと積極的に関係そのものを考えたいです。そして、モノとの関係という意味だけでなく、モノを通した自分との関係、社会との関係、自然との関係です。なので、モノを関係性の窓だと思うといいのかもしれません。詳しくない分野の話を書くと、何言っているかわからなくなりますね。次回に期待。

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