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煎茶は「ものあそび」の世界です    ー「ものづくり」と「ものがたり」、その先の世界へー (如翺)

最初の画像は今月稽古場に設えていた手前座です。
何と言っても、この存在感のある炉が一番の眼目です。


この手前座とひと月空間を共にしていて「もの」について書かなければと思うようになりました。今回は「もの」を「作る」、「もの」を「語る」、そして「もの」を「遊ぶ」ことについて書き連ねてみようと思います。


「ものづくり」によってモノが生まれ、
それに付随する「ものがたり」が語られることによって
新たな価値が出来ていく、
目には見えない新しい価値を生む「ものがたり」あるいは「ストーリー」、
その重要性が説かれるようになって久しいように思います。
しかし時間がたつに従って、「もの」と「かたり」が分離してきているように思えてしまうことも増えてきたようです。

そして「かたり」が必要以上に「もの」についてぺちゃくちゃと喋り始め、「もの」があっての「かたり」ではなく「かたり」ありきの「もの」、いわば「かたりもの」的な現象が世の中を取り巻いているように思えて残念なのです。

「ものづくり」の話から始めましょう。

2020年6月稽古⑤

これは、大正時代に初代中島保美という工芸作家が、中国紀元前に作られた「青銅器」の中でも「鼎(テイ)・(かなえ)」という形を写して制作した「もの」です。
文様は竊曲文(せっきょくもん)と呼ばれており、西周時代後期から現れます。これに先立つ時代の青銅器に見られる「夔龍文(きりゅうもん)」の一部(目)を極めて抽象化した文様だといわれています。
確かな知識と研究に基づき、青銅器らしい重厚感が非常にうまく作られ完成しています。「写し」の技術の高さを思わせます。

次に「ものがたり」。

これは私の曾祖父・昇玉一茶(しょうぎょくいっさ)宗匠の好みもの(発注品)で、やはり紀元前の人ではなく、近代人の感覚だなと思うのですが、
この「青銅器」の「鼎(テイ)」という形に、かなり抽象化された文様「竊曲文」を合わせることで、青銅器特有の今にも動き出すような生命感ではなく、極めて端正にまとまっています。「生命」というよりも「もの」としての存在感を作り上げています。

また、「鼎(テイ)」という形の青銅器は、紀元前の世界の中では、生贄(いけにえ)を中に入れ、焼き、神に捧げるための器物でした。
しかし時代が下り、書斎(=文房)という、一人で学問をし、気の合う仲間だけを入れて語り合うことを覚えた知識人(=文人)たちは、書斎(=文房)の中で、茶を煮るための道具として、さまざまな遺跡から発掘される青銅器の中でもこの「鼎(テイ)」を使い始めるのです。
生贄を入れて焼いて神にささげる器物ではなく、それを、灰を入れて火を入れて、湯沸かしを乗せて水を温めるための道具へと変化させ、転用したのです。この贅沢な転用に、文人たちは驚き、笑い、喜び、広めたのです。

2020年6月稽古① (2)


さて、いよいよ「ものあそび」へ。
実はここからが煎茶を楽しむ私たちの出番です。

この青銅器の「鼎(テイ)」という「もの」は、前述のように生まれて来て、前述のようなストーリーを持っています。私たちの遊びはここから始まります。
「鼎(テイ)」には文人たちが書斎(=文房)の中で茶を煮るために使ったという「ものがたり」があるのだから、その物語を使って遊ぶと、
「鼎(テイ)」を置いて、中に灰を入れて、湯沸かしをのせれば、その空間は文人の文房の中に見立てられる、
そこにいるわれわれは、文人たちの文房の中にいるのです。
その空間にこんな掛け軸を掛けてみる、

2020年6月稽古④

これは今月稽古場にかけていた夏の雨の山水画です。
この絵画もやはりストーリーを持っています。

雨。青々と茂る夏の葉は多く水を含み、また、山から流れる川は水かさを増す。強く流れる水音が岸部の岩に跳ねる。土は泥と化し、岩は磨かれて、歩くと滑りそうだ、橋には蓑と傘を付けた人物が釣り竿を担いで渡っている。

この絵画という「もの」と、あの青銅器という「もの」を置き合わせると、
そこでは「ものがたり」と「ものがたり」の掛け算が起こります。

この風景から広がって、こちらに延びてくる水辺に、山房があり、窓を開けると、この光景が見え、この水の音が聞こえ、この空気を肌に受ける、
この山の中の文房には私がいて、青銅器にのせた湯沸かしからは軽く煙ががたっている、

そこでこんな詩の一部が頭をよぎるのです。

《訳》
・・・・雨が木の向こうへと行ってしまったあと、・・・
春は過ぎ去ったというのに寒さがなお浅くのこっている。
花は季節が終わったというのに残っていて、やはり取り残された蝶々には
その憂いがわかるのだ。
夕暮れの窓、私が沸かす茶はまだできない、すっと一本の煙が浮いてゆく。

《原文》
・・・・雨歸雲外樹・・・・
春去寒仍浅 花残蝶解愁 晩窓茶未熟 一縷翠煙浮浮 
(『初夏書事』 清 方芳佩)

絵画には春は去ったというのに取り残された花や蝶は描かれていません。
私たちは想像の力によってまだここに存在してしまうそれらを頭の中で絵に描けます。また、橋を渡る人物は、本当は都市部で活躍したかったのにもかかわらず、同期たちは恐らく都会で出世しているのに、自分は流されてここにいることを余儀なくされた人なのかもしれません、
そんな風景に、こちらで茶が煮えるのを待っている私は、気持ちを同化させているのでしょうか。
この山の中の文房にある、生命力よりも抽象化されたデザインとして生まれてきた「青銅器」はなにか冷ややかな存在感として映ります。

これが「ものあそび」です。
「もの」と「ものがたり」を掛け合わせ、
さらに文学的なエスプリを重ねていくと、
「もの」を出発点にして、
どんどんどんどん想像の「あそび」が広がっていきます。

ここにちょっとどろっとした、苦めの茶の味が舌に入ると、
何とも言えない梅雨の情感となることでしょう。

煎茶はいつもいつも「ものあそび」を提案しています。

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