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背景にあるもの

大学院生の時、教授の大規模な回顧展を観るため長野まで出向いた。

長野は先生の郷里。確か季節は冬の始めで、私は白いセーターを着ていた。さほど寒くはなく、葉を落とした柿の木が、枝いっぱいに実をつけていた。

ずいぶん昔の、この小さな日帰り旅を今でも忘れないのは、
[画家の背負う風土]
というものをこの時初めて実感を持って知ったからだ。後から幾度も、この日見た光景を思い返したから。記憶は反復によって浸透する。


東京からの特急列車を降り、二両編成のかわいらしい在来線に乗り換える。周りは地元の高校生たち。なんか若いなあと観察する。

ふと窓の外に目をやって、はっとする。
山を覆う黄葉!
それまで、紅葉といえば紅く色づくものと思っていた。銀杏の黄色、欅の褐色という例外はあるにせよ、街でも山でも木々は概ね、あかくなるものと認識していた。
ここでは違う。
豊かな黄色から黄土色、朽葉色のグラデーションが山全体を包む。その色調の、鹿や栗鼠の背の色のような、乾いた明るさ。それはまさに先生の絵の色だった。

電車が山に添って曲がる。不意にきらめく小さな川面が現れる。ああ先生の絵だ。幾層にも重なった絵具の間から、銀箔がのぞいているようだ。

先生の作品は、いわゆる具象画ではない。故郷の風景をそのまま描きましたという類のものではない。むしろ抽象的に、地や天が描かれる。
おそらく幼い頃から先生が目にしてきた色や形が、これもおそらくは無意識のうちに作品にあらわれることへの、深い納得と驚き。


絵を描く同僚からこんな話を聞いたことがある。


絵を描く時、背後にある壁によって絵は変わってくる。すなわち、絵を立てかけた背景が、木なのか紙なのか、あるいは石なのかによって、できあがる絵が違ってくる。アトリエの壁が白壁なのか襖なのかタイルなのかコンクリートなのか、が、絵を左右する。

ピカソやドスタールは石造りの城に住んだ。
清方は畳と障子の日本家屋に。


東京生まれで、街で育った。紅葉は桜、欅、銀杏。窓から山は見えないが、子供の頃は東京タワーが見えた。今は小さくスカイツリー。
フローリングとクロス壁のマンションで描く。わたしの背景とは何だろう。身に染み入るような色を、わたしは得ているのだろうか。
背筋を伸ばして、壁に触れてみる。




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