観察者の視点とその先にあるもの②
前回の記事で、「“観察者の視点“はわたしにとって冷たい視線ではなく、わたしの一番の理解者だと思っている」と言語化してから、自分の意識の心許なさがなくなったような気がします。ずっと感じてきた寂しさが薄れたような…。
わたしは、どんなに近しく思い合える人であっても、人間が違うのだから真に理解して分かり合うことは不可能だという信条を持っています。なので、年齢を重ねてもずっと根本的な寂しさは消えることはありませんでした。
それが、“観察者の視点“がわたしの一番の理解者だと思ったことによって、初めて自分のことを自分で無条件に支持できる感覚を得られたのです。
“観察者の視点“という感覚をもち続けていなくても、「自分の意識と同時にその自分を観察している自分がいることを知っている=一番の理解者が常にそばにいる」と認識するだけで、長年の寂しさが消えたのです。
やっと自分で自分を愛するというか、自分の真の理解者としての自分に気づけたことで、意識の層が厚くなったような気がするのです。(自分に対する絶対的な安心感)
今回は、このような意外な気づきを得られた”観察者の視点“から連想したことを二つ書いてみようと思います。
グルジェフの自己想起
グルジェフは音楽関連で知りました。彼の教えはとても難しそうなので、そこをかじるつもりはさらさらありません(笑)
ですが、関連サイトで読んだグルジェフの唱える自己想起というものに惹きつけられました。
自己想起とは、何かを行っていることと、それを行っているのは自分であるという二つのことに同時に注意を向けることとあります。
普通は対象だけに注意が向きますが、生活の中でそれを行っている自分の存在にも常に気づいている状態のことです。
あれ、それって“観察者の視点“と同じじゃん!
そこでの理論は、自己想t起できていない状態は人間としては盲目的に生きている状態なのだとあります。
日常生活の中で、あれこれ意欲的に活動してタスクをこなしていても、それをしている自分という存在を同時に意識できていなければ、真の意識活動としては眠っているということなのでしょうか?
自己想起できている状態とはやはり特殊なことのようで、この状態で記憶したことは、より鮮やかにリアルに意識の中で甦るらしいのです。
そういえば、わたしには何年経ってもリアルに思い出せる映像があります。それは、幼稚園の夏の制服を着たわが子が、キラッキラな瞳でわたしに笑いかけている映像です。
確かにその可愛さに見惚れていた記憶がありますが( *´艸`)、単なる思い出ではない、決して色褪せないリアルさなのです。
もしかしたら、その瞬間自己想起していたのかもしれません。
自己想起とはある種の覚醒状態といえるのかもしれませんね。
きっと誰にでもそのようなリアルな記憶があるのだろうと思います。
創造主とつながっているかも
“観察者の視点”は、以前にNoteで書いた宇宙創造主につながっているなと思っています。
それは、宇宙創造主が自分を知るために次元を下げながら地球意識にまで降りてきて、地球の生命体を観察しているという内容です。
この宇宙創造主が観察していることと、わたしがわたし自身を観察していることがリンクしているように思うのです。
ここから妄想の世界になります…。
宇宙創造主は自分を知るために、場(天体)を創って、そこにゲームのようにプログラミングしたキャラクター(生命体)を配置して、どうなるか観察しているのではないかと思うのです。
大まかには、きっとそうだと思います(笑)
配置されたわたしたちは眠った状態で動かされているのです。でも、よく自分を見てみて。誰かがわたしを観察している!
毎日忙しく目の前のことに取り組んでいるけど、その背後でじっと何者かに観察されていた。それはわたし自身でもあるし、もっと大きな意識でもあるような気がする。
“観察者の視点”で観察している自分、わたしはそこに、年齢も性別も生まれ育った環境も感じていません。本当に観察している意識だけ。それは自分であるというしかないのだけれど、きっとそこ(意識)を通じて、情報は創造主に送られているとなぜか思うのです。
だって、創造主は情報が欲しいのでしょ。
わたしたちは日常生活に没頭させられていますが、創造主はその行動の裏側にある人間の動機を知りたがっているのではないでしょうか。
物理的生活の裏側にある意識世界こそが本当の世界だと言われています。
その意識世界で何を思うのか、何を思わされているのか、何に気づくのか。
人類の行く末が見え始めた昨今、宇宙創造主はもう眠ったまま動いているキャラクターは面白くなくなっているのかもしれません。
対象に没頭するだけでなく、本当の自分はどうしたいのか、閃きをキャッチして考えながら生きていく時代になったのだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。