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無花果の家

木造家屋の建ち並ぶ路地の、突き当りを右に曲がって二軒目。色褪せた珠算塾の看板がかかったブロック塀と繋がった小さな門は、無花果の枝に覆い隠されてともすれば見落としてしまうかもしれない。その葉は大ぶりで、旧約聖書によれば、エデンの園で禁断の果実を食べたアダムとイブが性器を隠すのに用いたとされる。それでなくとも日射しの届き難い路地のなかにあって、夏ともなれば大きくて深い緑に埋もれた二階建ての家屋はほとんど見えなくなってしまう。おのずと周辺にも陰鬱な空気が漂い、そうして夏の終わる頃には、収穫されず仕舞いの無花果の果実が落ちて路上を汚すので節子さんなどは閉口している。確かに、アスファルトに飛び散った血肉のような痕がおぞましい。それをついばむために鳥も集まってくる。主に、嘴の凶凶しいハシブトガラスだ。どうせなら落ちる前に全部食べてしまってくれればいいのに、と節子さんは毎年同じ愚痴をこぼすのだが、どういうわけか、家の主に直接文句を言うことはないのだった。昔は日曜日なんかに家族でたくさんとってね、ご近所に配ってくれたのよと。可哀そうな人なの、吉田さん。吉田さん、という名前はそれで知った。無花果の木下闇のなかから毎朝決まった時間に出てくる。いつでも頭上の枝を避けるかのように背中が曲がっていた。肩甲骨の下あたりからほぼ直角に曲がったその背骨のせいで、おそらくは吊るしで買ったジャケットの後ろ見ごろが引っ張りあげられて、ズボンのベルトが覗いてしまう。それを指摘してくれる者はもう誰もいないのだ。

ある日。燃やすごみの収集日だった。吉田さんは弁当やカップ麺の空き容器などを詰め込んだコンビニエンスストアのレジ袋をぶら下げて現れ、珠算塾の前に設えられた金属製のごみ箱に投げ入れた。おはようございます、と挨拶をしてみたが応えてはもらえなかった。深い皺に埋もれそうな裸眼は海洋哺乳類のそれのようだ。睨まれたわけではないだろうが、そんな圧力さえ感じさせ、節子さんの言う「可哀そうな人」というイメージを全力で拒否しているようでもあった。吉田さんの手にはいつもの薄い革の鞄が握られている。節子さんの話しでは、勤めていた出版社はとっくに定年で退職しているはずだった。嘱託で再雇用されたのかもしれなかったが、もちろん確かなことは分からない。
だからそう答えた。
吉田さんが今しがた捨てたばかりのごみ袋を拾い上げた若い男は、以前にもどこかで見かけたような気もする。日が昇ったばかりだというのにワイシャツにはもう汗の染みが滲んでいた。帰りは? 分かりません。そういえば、帰宅する姿は見たことがなかった。いつもいつの間にか家に灯りがついていて、だから、その家に吉田さんが誰を連れ込んでどのようなことを行っていたとしてもそれを知ることはできなかった。まったく気づかなかったのか、と刑事に強い口調で尋ねられた節子さんは、今にも泣きだしてしまいそうだ。子供たちに長年そろばんを教えてきただけの老婦人には想像することさえ難しかっただろう。

昔、セックスをする時にいつもマイケル・フランクスをかけていたら、例えば「スリーピング・ジプシー」を聴かせるだけで濡れてくる女がいたという話をしてくれた男は、三十代で死んだ。今はもういない彼とセックスとマイケル・フランクスは、だからセットで記憶されたまま動かない。ニュースのなかで吉田さんを神さま、と呼んだ少女の顔はぼかしがかかっていて、その声にも加工が施されていたが、実際に保護される場面を見ていたから彼女が何歳くらいのどんな容姿の女の子だったのかよく覚えている。吉田さんの曲がった背中と彼女と無花果はおそらく、この先ずっとそのように記憶されるだろう。
「命というものがどういうものなのか、教えてくれたんです」と、少女は世界に向けてナイフを突きつけているようだった。


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