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コロナ禍、「みんなで生き延びる」ための経済政策に向けて ② ―武器としての「価格」政策―

前回のおさらい

前回の記事で、コロナ禍において、「みんなで生き延びるため」の社会・経済へと転換する必要があると論じました。一人でも多くの人の生命を守るために、私たちはパンデミックと恐慌の両方を回避しなければなりません。経済を活性化しようとするGOTO系政策はパンデミックを引き起こし、感染抑制のための緊急事態宣言は恐慌の引き金になりえます。

GO and STOP、アクセルと緊急停止ボタンしかない状況は、あまりにも社会制御として過激すぎます。かと思いきや、緊急停止ボタンを「ちょい押し」してみましたとばかりに、「緊急事態だけど、飲食のみ時短で」とかって中途半端なことを菅政権は言ってるわけですが、やはりメッセージとしては非常に曖昧ですし、かなりの無理があるわけです。

「みんなで生き残る」ために、緊急事態宣言みたいなポンコツブレーキではなく、もっと感染と経済とをうまくコントロールできるような制御機構を、私たちは発明する必要がある。それが前回の議論でした。

まだ読んでくださっていない方は、一度眼を通していただければと存じます。

忘れられた社会制御装置

前回、「経済をスローダウンさせる必要がある」という言い方をしましたが、それについてはお詫びして若干修正したいと思います。

もちろん、一律で経済をスローダウンさせる必要はありません。私たちがスローダウンさせる必要があるのは、感染拡大につながる経済活動だけです。それも地域や時期によって、必要な程度は異なります。

そして感染拡大につながる経済活動といっても、病院や福祉といった、人の生命にダイレクトに関わる仕事を減らすべきでないことは自明です。

いま、処罰・禁止という制御手段の是非が議論されています。しかし、私たちは「人と社会」を動かすための、もっとも重要な道具を忘れていないでしょうか。

それは貨幣価値、言い換えれば「価格」です。

ごく単純な需要と供給の法則として、人は価格が安い方向に誘導され、価格が高ければ避けるものです。価格を一定の仕方で左右させることで、人の動きを変え、社会を変えることができるのです。

問題の本質は、そうやって人為的に起こした社会変化が、望ましい方向なのか、そうでないのか、です。

前回指摘しましたが、GOTOは、消費者にとっての実質価格を下げることで消費行動を促す政策でした(野党が主張する消費税減税にも同じ効果があります)。でもそれは、感染を促進するという点で、コロナ禍においては望ましくもなく、また持続可能でもない政策です。

感染を抑制するためには、全く逆の発想が必要です。消費者にとっての価格を上げることで感染抑制をする、それが持続可能かつ望ましい政策です。飲食業、接待業、観光、映画館・球場での感染・ライブ・カラオケなど、感染拡大に繋がる経済活動の価格が上げれば、無理なく消費行動を減らすことができるのです。

逆に、PCR検査および全自動PCR検査機、マスクや消毒液購入、飲食店のテイクアウトなどの感染を結果的に抑制する消費行動は、価格が下がることで利用されやすくなります。

感染拡大につながる商品・サービスの価格を上げ、感染を抑制する消費行動は価格を下げる―これが感染対策「としての」経済政策、その基本中の基本なのです。

価格アップで経営ダメージは小さくなる

価格を上げると、もう一つメリットがあります。それは、消費者が減っても、経営へのダメージが軽減されるということです。

ちょっと想像してみてください。馴染みのラーメン屋が、コロナでお客さんが減って、数ヶ月で潰れそうだとします。なんとかいって応援してあげたいけど、感染するリスクも、お店に行ってオーナーや他のお客さんに応援してあげるリスクも心配です。

なんとか助けてあげたい僕なりの一つの答えは、通う頻度は減らすけど、その分、多めに色々頼んであげるというものです。塩ラーメン(味玉トッピング)の他に、から揚げ、餃子、ビールを頼んで、2000円ぐらい払う。そうしたら、お店も助かるわけです。

でも、この支援策には大きなデメリットがあります。それは、否応なく僕が太るということです(笑)。

とはいえ本当は、たくさん頼む必要もないのです。通う頻度は半分にして、1杯1000円の塩ラーメン(味玉トッピング)を頼んで、2000円を置いてきたら良いのです。ちょっぴり損はするかもしれませんけど、僕もオーナーも、心は温かくなります(気のせいかも)。そうやって、ちょっとずつ助け合う。そして僕はダイエットに成功します(たぶん)。

価格を上げるということは、それと同じような効果があるわけです。顧客減と客単価アップが相殺されて、経営へのダメージがかなり軽減されます。そうすることで、連鎖倒産や恐慌も回避しやすくなります。

価格アップが時短要請よりも優れている4つの理由

いま政府・自治体が飲食店に時短営業を要請しています。確かに感染抑止効果は多少なりともありますが、その分、どうしてもお店の収入は減るわけです。だから、いくら補償するのかという話になっているわけです。

それに対して、地域一律価格アップによる感染対策がもし可能だとすれば、それは時短営業よりも、少なくとも4つの点で優れています。

①感染防止策としての効果がより大きい
時短営業では、確かに利用客は減ります。しかし、営業時間中の店内の密度は大きく代わりません。そのため、時短営業の感染防止効果は、客が減った影響だけですし、限られた時間に集中することで、感染リスクがかえって上がることさえありえます。
それに対し、価格アップ施策では、営業時間はそのままで、客がおそらく全体に減ります。そうすることで店内のソーシャルディスタンスも確保できる訳です。
仮に価格が2倍でお客さんが半分になったとしたら、感染リスクは顧客減で半減、さらに店内密度減でさらに半減します。論理的に考えれば、時短営業より、価格上昇策の方が、自乗的に感染抑止効果が出るのです。

②価格なら段階的にコントロールできる
時短営業で感染抑制がうまくいかなければ、もはや休業要請しかありません。だから今、「次の一手がない」と政府首脳陣が頭を抱えている訳です。
価格ならもっと柔軟にコントロールができるわけです。従来から120%の価格でも感染が治まらなければ、150%にしてみる。それでもダメなら175%に・・・と、論理的には果てしなく感染抑制策が取れることになります。
逆もしかりです。時短営業の場合、ちょっと感染が治まってきた時に廃止すると、今まで消費行動を我慢してきた分、反動が一気に出ます(ロックダウンも同じです)。
しかし価格統制なら、最近感染者が減ってきたから、油断はできないけど少しずつ下げていこう、という制御ができます。そのぶん、反動が出にくい訳です。

③経営へのダメージが小さい
時短営業では、確実に店舗経営に悪影響が出ます。だから、行政は支援金を出す必要があるのでした。
しかし、それでも大きな問題が残ります。一つは、補償が経営へのダメージを十分に補填できない可能性です。サイゼリアの社長が吠えていましたが、大きな店ほど、どうしても支援金では足りなくなりがちです。
もう一つの問題は、さらに深刻です。補償は「いつも後からしか振り込まれない」のです。日本の行政システムの動きは非常に遅いので、申請してから振り込まれるまでに、数ヶ月やら半年やらのタイムラグは普通に起こりえます。それまでにキャッシュが枯渇すれば、店舗は倒産に追い込まれます。
価格アップ政策が可能ならば、「日本の行政」という巨大でのろまなプレイヤーを通さずに、顧客からお店に直接キャッシュが入るわけです。また、価格がさらに上げれば、そのぶん客単価も上がるわけで、客数減のダメージが自動的にカバーされます。感染を抑えつつ経営へのダメージを抑える、自動調整機能をデフォルトで備えているのです。

④財政へのダメージが小さい
時短要請や休業要請では、政府は多額の補償を民間企業に行う必要があります。その補償が十分でなければ、民間企業は要請にしたがえませんし、その状況で無理に応じれば、経済危機が起きる可能性があります。逆に、要請に従ってくれるほどのお金を出せば、政府や地方自治体の財政へのダメージが大きくなります。
「こういう危機的状況を救うために、政府に私らは多額の税金を支払っているんだ」、という人もいるでしょう。ごもっとも、心の底から同意します。しかし、今は検査や医療体制、そして必要な社会変化のために、莫大なお金が必要になる時でもあります。
価格アップそれ自体は、政府への財政負担がありません。仮に補償が必要だとしても、その負担は相当に軽減されるはずです。そのため、より強力な防御体制を取らないといけないというときでも、財政負担をさほど心配せずに、必要な措置を即座に講じることができます。その分、政府は防疫のために、莫大なリソースを投じる余裕ができるのです。

感染対策と経済対策の矛盾を超えて

なぜ価格コントロール政策は、感染を防止しつつ経済へのダメージを最小化することが可能なのか。ちょっと理論的な解説をします。

マルクスは『資本論』において、商品には2つの価値があると言いました。それが、使用価値と交換価値です。

たとえば、ラーメン屋さんでサービスされた一杯の塩ラーメン(温玉トッピング・肉増し)は、暖かさ・美味しさ・栄養・店主のはにかむ笑顔といった、私の感性や身体にとっての価値がある。それが使用価値です。

それに対して、塩ラーメン(温玉トッピング・肉増し)が「1000円」というのは、貨幣によって測られる「交換価値」です。この交換価値は、紙幣とか銀行口座とかpaypayとか色んな媒体がありますが、本質的には記号のレイヤーです。

重要なことは、パンデミックは、「交換価値」ではなく「使用価値」のレイヤーで発生するということです。それに対して、恐慌は本質的に「交換価値」のレイヤーで発生します。

あらゆる飲食店や映画館や宿泊施設が、感染抑制のために顧客数を制限しています。それでは経営が持続できないことは自明です。たとえば、野球チームが観客数を5分の1に抑えるならば、入場チケットの値段も5倍に上げないと、経営は存続できないはずです。そして、高い値段を出しても、自分の愛する球団を支えたいという人は、確実に存在するでしょう。

感染の抑制を試みつつ「持続可能」なように価格を変えようとする発想が、私たちの社会にはなかった。感染対策をしようとしたら経済がダメージを被る本質的な原因は、「価格の固定」だったのです。

つまり、恐慌を発生させずに感染抑制をするためには、交換価値はそのままで、使用価値のやりとりだけスローダウンさせれば良いのです。その使用価値と交換価値のレートを決めるのが「価格」であり、価格を変動させることによって、連動していた使用価値のレイヤーと交換価値のレイヤーを切り離し、感染対策と経済対策を両立することが可能となるのです。

擬似的な価格統制はいかにして可能か?

私たちの社会には、緊急事態宣言や時短要請といったポンコツブレーキしかない。だから新しい社会制御装置が必要だ、というお話でした。

「価格」は、その社会制御装置としては非常に優れている可能性がある候補です。それは効果的かつ段階的に制御できるブレーキですし、迅速ですし、省エネですし、経営へのダメージを軽減するスタビライザーも自ずと備えています。

しかしこれは、あくまで仮定の話です。つまり、「社会全体として価格を統制することがもし可能だったら」という話でしかありません。

最大の現実的課題は、「どうやったら、今すぐに、現実的な仕方である地域や業種の価格をコントロールできるのか」です。

計画経済の国なら話は簡単です。独裁者として、「塩ラーメンは明日から2000円にしなさい、従わなければ(以下略」と命令すれば、すぐに実現できます。

しかし、私たちの国は、まがりなりにも資本主義経済、自由主義経済の国です。経営者は、自分で好きなように価格を決めることができます。

そして逆説的にも、この私企業の「価格設定の自由」こそが、個々の経営者が価格を上げられない理由でもあるのです。個々のレストラン経営者は、毎日の予約数を半減させたからといって、価格を倍にすることはできません。そうすれば、他の店に顧客が流れてしまい、経営が持続できなくなるからです。

今この需要が完全に冷え込んだ資本主義社会において、「他の店が根をあげるまでひたすら待つ」という過酷なチキンレースを、個々の経営者が強いられているのです。

では、実際にはどうしたらいいのでしょうか?

皆さんも、少し考えてみてください。

読者の皆さんへ

ここまで読んでいただいてありがとうございました。

私が提案する政策は、決してそれ単独で、私たちが直面している未曾有の危機を解決できるものではありません。多くの知恵を集め、前向きにこの国を変えていく必要があると思っています。

与党も野党も、政治的スタンスも関係ありません。

ぜひ皆様も、建設的な議論に参加していただければと存じます。もちろん、批判も大歓迎です。

続きはすぐにリリースする予定にしています。

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