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ロマノ・ヴルピッタ×金子宗德×山本直人×荒岩宏奨「日本回帰・第五の波に備えて 日本浪曼派座談会  中」(『維新と興亜』第7号、令和3年6月)

『維新と興亜』

 我々はいま、次なる日本回帰の波に備えて、日本浪曼派から何を受け継げばいいのか。前回(第六号に【上】を掲載)に続いて、ロマノ・ヴルピッタ氏(京都産業大学名誉教授)、金子宗德氏(里見日本文化学研究所所長)、山本直人氏(東洋大学非常勤講師)、荒岩宏奨氏(展転社代表取締役)による座談会の内容を掲載する。

現状打開の手段としての「イロニー」
金子 保田與重郎が昭和七年三月に肥下恒夫、田中克己らとともに創刊した文芸雑誌が『コギト』です。この誌名は、デカルトの「cogito ergo sum」(われ思う、故にわれ在り)に由来します。ドイツ・ロマン派の影響を受けた同誌は昭和十九年まで続きますが、その間、保田は『日本浪曼派』創刊を決断し、『コギト』昭和九年十一月号に「日本浪曼派」広告を掲載しました。これに署名したのは、保田與重郎、亀井勝一郎ら六名です。「広告」には、次のように書かれています。
 「平俗低徊の文学が流行してゐる。日常微温の饒舌は不易の信条を昏迷せんとした。僕ら茲に日本浪曼派を創めるもの、一つに流行への挑戦である」「かつて僕らの卓越せる先人たちは、芸術する精神を不遜に持するゆゑに、万難に遭ふて、一悟摧じなかつた。しかも早き芸術する自覚は、中途にして伸びず、僅少の気品は微かに残り、多く、衆声の俗悪化、芸術の技術化、精神の拝物化に自ら墮した。或ひは流行通俗に佞つては作家態度を棄て、或ひは進歩向上に藉りて芸術精神を薄めた」
 「広告」は「売らんかな根性」に囚われて芸術としての本道を見失った同時代の文学を厳しく批判し、「漫々と西洋の文物は移入せられ、忽ち知識化されつゝも、つひにそれが芸術化されし例は、数へて遂に嘆じるのみである」と、横書きを縦書きに翻訳するのみで西洋文化を主体的に摂取して血肉化しようという意思を欠く知識人の思想的頽廃ぶりを嘆いています。
山本 『日本浪曼派』が創刊されたのは、昭和九年に日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)が治安維持法による弾圧を受けて解散し、日本の文学がどのような道を歩んでいくかが模索されていた時期です。プロレタリア文学的なものが終息し、明治、大正的な文学が見直されていた時期でもあります。
ヴルピッタ 昭和初期の激動の時代を、文明開化による近代化・西洋化の行き過ぎと矛盾に対する文化上・政治上・社会上の反抗の時代として捉えれば、日本浪曼派はこの反抗の文学上の表現として見られるのではないかと思います。しかも、日本浪曼派はこの反抗に思想的な基盤を与えたと言えるでしょう。
金子 ここで注目したいのが、保田が用いた「イロニー」という言葉です。「広告」には、「茲に僕ら、文学の運動を否定するために、進んで文学の運動を開始する。卑近に対する高邁の主張に他ならぬ。流行に対する不易である。従俗に対する本道である。真理と誠実の侍女として存在するイロニーを、今遂ひに用ひねばならぬ」と書かれています。この「イロニー」は「皮肉」や「逆説」と訳されますが、この「イロニー」を如何に捉えるべきでしょうか。
山本 保田は、ドイツ・ロマン派のロマン的イロニーの影響を受けています。彼は早い時期からヘルダーリンやシュレーゲルなどのドイツ・ロマン派に注目していました。例えば、ヘルダーリンについてのエッセイ「清らかな詩人」などを書いていました。
 ただし、桶谷秀昭先生が『昭和精神史』で指摘されているように、保田の「イロニー」の原点には国学的な発想があったと思います。江戸中期の国学者、富士谷御杖が指摘した「倒語」の影響があるということです。倒語とは「思っていることを言うかと思えば、思ってもいないこと事を言う」ことです。これが、保田のイロニーの原点なのではないでしょうか。敢えて強い言葉を使い、大げさなことを言って、危機的な状況を打開するという姿勢です。
ヴルピッタ 桶谷氏が指摘された「倒語」について、私は少し疑問を感じています。確かに保田は富士谷に造詣はありましたが、保田は「イロニー」という言葉を、ドイツ・ロマン派のイロニーの意味で使っていたと思います。シュレーゲルが指摘したように、「混沌の無限の可能性の中で、機敏さと情熱を発揮する精神」を支えるものとしての「イロニー」です。
 私は、保田のイロニーについて、これまで動的、創造的、建設的な性質が無視され、消極的、懐疑的、自虐的な側面だけが細かく分析され過ぎてきたと思っています。保田のイロニーは延々と続くものではなく、一時的なものでした。保田にとって、イロニーは現状打開の手段、武器に過ぎなかったということだと思います。先ほど紹介された「広告」に、「茲に僕ら、文学の運動を否定するために、進んで文学の運動を開始する」とあることにも、保田のイロニーが一過性の現象に過ぎないことが示されていると私は考えています。

京都学派に厳しかった保田與重郎
金子 「イロニー」は弁証法に対する批判と見ることもできます。マルクス主義がドイツ観念論から受け継いだ弁証法においては、ある命題・テーゼに対し、それと対立する命題・アンチテーゼが存在する場合、両者を統合する包括的な命題・ジンテーゼを見出すことで止揚される、つまり矛盾を克服しようとする方向性がありますけれども、矛盾を矛盾として受け止めようとする発想が保田には見られます。
ヴルピッタ 橋川文三は『日本浪曼派批判序説』において、保田がマルクス主義の弁証法をイロニーに転化したと書いていますが、私はその見方に共鳴できません。橋川は、「保田の思想と文章の発想を支えている有力な基盤として、三つの体系的構造が考えられる。マルクス主義、国学、ドイツ・ロマン派の三要素がそれである」とも書いています。しかし、拙著『不敗の条件』(中央公論社)に詳しく書きましたが、保田の思想にはマルクス主義の思想構造は全く見当たりません。
荒岩 日本浪曼派「広告」を読み返して気づいたのは、日付が「一九三四年十月」と西暦で書かれていることです。保田は、海外の事象について記述する時以外には、常に元号か皇紀を使用していて、西暦は使っていません。それにもかかわらず、「広告」では西暦を用いました。保田らは、敢えて西暦を使い、それに気づくか気づかないかも読者に委ねようとしたのでしょうか。
ヴルピッタ 大変面白いことに気づきましたね。保田らは、「広告」において、未来派のマニフェストを意識したのではないでしょうか。敢えて西暦を使うことによって、自らの思想を日本国内だけではなく、全世界に訴えることを考えていたのではないでしょうか。むしろ、日本浪曼派は日本に限らず、世界の潮流の一つだということを意識していたのかもしれません。保田はヨーロッパの没落を強く意識し、その中で日本の新しい役割を考えていました。彼は、「日本浪曼派が未来の大きな潮流の一つになるのではないか」と考えていたのではないかと思います。
 山本直人さんの提案で、「今日は日本浪曼派の対談だから和服を着て参加しよう」ということになったそうですが、それは違いますね(笑)。保田は、戦後には和服を着ていましたが、戦前、所謂浪曼派の時代には和服を着たことがありません。
山本 実際には保田もモダニズム的な文化に浸っていたのだと思います。ただ、幼い頃から万葉集の素養を培っていたので、モダニズムから日本浪曼派への転換ができたのだと思います。
 福田和也さんの『日本の家郷』は、非常に新鮮に感じられました。同書は、保田にしても、彼と同時代の横光利一、萩原朔太郎にしても、文明開化の洗礼を受けており、究極のモダニストだったと指摘しているからです。モダニストだからこそ、モダニズムが行き詰った時に、日本回帰につながっていく。福田さんが「日本人であるにもかかわらず、日本を語ることはイロニーだ」と書いていることにも、非常に納得しました。
 戦後の高度成長期までは、江戸時代の延長だったという見方もあります。日本人は、モダニズムの文化に浸りつつも、高度成長期以前には、井戸を使い、七割以上が農業をしていました。そのような日本の状況に言葉を与えたのが、「イロニーとしての日本」だったのではないかと思います。
ヴルピッタ ただ、モダンな生活を取り入れていることとモダニストであることは別だと思います。
金子 そうですね。モダンな空気の中で保田が生きていたとしても、積極的にモダニズムを推し進めたわけではないと思います。
── 京都学派の「近代の超克」論と日本浪曼派の違いはどこにあるのでしょうか。
ヴルピッタ 保田は、昭和十七年に雑誌『文学界』によって開かれた座談会「近代の超克」(同誌九、十月号掲載)には出席していません。保田には京都学派とは違うという自負とともに、官製色の強い座談会に出ることを潔しとしない気持ちがあったのでしょう。
金子 京都学派に対する保田の評価は、かなり厳しいですね。先ほどの「広告」に「漫々と西洋の文物は移入せられ、忽ち知識化されつゝも」という一節がありましたけれども、日本は近代ヨーロッパの学問を教養として受容します。それが一種のイデオロギーと化したのが大正時代で、その象徴的なメディアが岩波書店です。こうした流れの中からマルクス主義も生まれました。マルクス主義が弾圧された後、多くの人が「日本回帰」していきました。
 京都学派は、「世界史の哲学」を提唱します。そこでは、ドイツの歴史学者ランケが提唱した「モラリッシェ・エネルギー」の概念を用いて、日本の世界史的役割、大東亜戦争の意義を説いたわけです。それは、祖国の危機に対する彼らなりの営為として評価すべきであると私自身は思いますが、保田にしてみれば、そのような西洋の文物に依拠して考察を進めるという京都学派の発想こそが克服の対象だったのでしょう。別の言い方をすれば、近代に一定の価値を認め、それを乗り越えるという発想に立つ京都学派に対し、保田は「近代に何の意味があるのか」というところから出発しているのです。
荒岩 京都学派の「近代の超克」論は、近代を乗り越えて、新たな価値を作り出そうというものでした。これに対して、保田は新しく価値を作らなくても、日本には歴史や文化がすでにあるので、その伝統に戻ればいいと考えたのでしょう。
ヴルピッタ ただし、保田の意識は、単に過去の日本に戻ることではなく、日本の歴史を踏まえて、新しい価値観を創造することも視野に入れていたと思います。
「芸術運動を中心とせる日本主義文化運動を怒涛の如く捲き起す」
金子 次いで、本誌のメインテーマでもある昭和維新運動と保田與重郎ら日本浪曼派との関係について論じたいと思います。保田は「我国における浪曼主義の概観」で次のように述べています。
 「明治以後の日本の浪曼主義の運動は、この七八九年ごろ再び起つたのである。昭和八九年頃と云へば、六年の満州事変、昭和七年五月事件、やがて十一年の東京事件につゞく期間である。当時の国家の状態は、肉体による詩的表現によつてしか救ひがたい位に頽廃してゐたのである。しかもさういふ表現は時代を風靡した社会主義によつてなされず、日本主義者の詩的挺身によつてなされたのである。この時文学上の新運動は所謂日本浪曼派といふ宣言から出発した」
 ここにはっきり示されているように、保田は、政治的な昭和維新運動と自分たちの日本浪曼派の文学運動を重ね合わせています。日本浪曼派はナルプ解体以降のプロレタリア文学の崩壊後に反動として登場したというのが今日における文学史上の定説ですけれども、保田自身はそれと全く異なる意識を持っていました。
 その後、保田は大東塾の影山正治ら昭和維新運動の関係者と深い付き合いをするようになっていきます。後年、影山は次のように述べています。
 「戦前、戦中に於て、我々が文化維新同盟や新国学協会で文化維新、文学維新、新国学の運動を共にした文人、歌人、学者には、保田與重郎兄の他にも倉田百三、浅野晃、尾崎士郎、林房雄、大鹿卓、中谷孝雄、三浦義一、藤田徳太郎、大賀智周、荒木精之、影山銀四郎等の諸氏が居り、いづれも広い意味での日本浪曼派圏の人々であった。そして、これらの人々は文学史上『大東塾グループ』の呼称を以って呼ばれて居る由である」
 この辺りのことを、影山の『一つの戦史』の復刻と、その劇画版の編集に携わった荒岩さんにお話いただきたいと思います。
荒岩 昭和維新運動と密接な関わりを持った保田は、文学の方面から自ら維新運動を目指したのだと思います。保田は、特に神兵隊事件に連座した影山と親密な関係を築きました。神兵隊事件は、昭和八年七月、愛国勤労党や大日本生産党などを中心に、陸海軍の青年将校も加わったクーデター未遂事件です。
 私は、維新運動には「詩と剣」、「文と武」の両方が必要だと思っています。まさに、日本浪曼派と維新陣営は、「詩と剣」、「文と武」の両輪として連携して動いていたように見えます。保田は、頭山満や内田良平を高く評価する文章を残しています。戦後の保田の文章を見ると、『現代畸人伝』などに河上利治のことが詳しく書かれています。河上は戦後に復興された大日本生産党の三代目党首を務めた人物です。ここからは、保田が大日本生産党系の人物と深いかかわりがあったことが窺えます。
 折口信夫は、保田に改めてほしいところがあるとすれば、そうした右翼との付き合いの深さだと言ったそうです。他者から見ても、保田と右翼には相当深い交流があったのだと思います。
金子 昭和維新陣営が日本浪曼派の関係を深めるきっかけの一つとなったのが、昭和十二年九月十二日に結成された日本主義文化同盟です。同盟の委員長には田尻隼人が就き、影山正治、金子智一、小杉賢二らが常任委員に名を連ねていました。同盟は「吾等は、文化運動の展開を通じ昭和皇道維新の翼賛を期す」と綱領で謳い、機関紙『怒涛』を創刊します。
 同誌創刊号に載った「日本主義文化同盟結成に当り全国同志に檄す!」には、「全国の同志を糾合し、芸術運動を中心とせる日本主義文化運動を怒涛の如く捲き起し、一切の非日本的文化、自由主義的思想を克服して、以て八紘一宇の真文化を建設すべき日本民族の一大使命を高揚せんことを誓つたのである」と書かれています。昭和十三年九月の『怒涛』一周年記念号には、文壇人である倉田百三、中河與一、林房雄の文章が掲載されました。

知られざる文藝春秋糾弾運動
ヴルピッタ 昭和維新運動は単なる政治運動ではなく、さらに広範な分野の運動でした。文学、美術、哲学、経済、さらに新しい学問として生まれた地政学なども含む幅広い運動でした。保田は政治的な感覚を備えていたので、戦後も積極的に政治運動を起こそうという発想を持っていました。
 日本主義的文学運動を起こそうとした保田が、影山に接近したのは自然の成り行きだと思います。では、保田は影山からどのような影響を受けたのか。例えば、保田は『日本浪曼派』の時代には、神道にそれほど強い関心は持っていなかったように思います。保田が神道への関心を強めたのも、影山の影響だったと推測されます。この辺りの問題を、是非若い人の研究テーマにしてもらいたいと思います。
── 例えば、保田は『怒涛』昭和十四年八月号で、「影山正治氏の『悲願吟』と、又新しい『国の子』といふ二つの歌集は、近ごろ私にとつて、この上なく感動を与へた詩歌であつた」と書いています。保田は、同年十二月には、影山が著した『松本奎堂』に序文を寄せ、「この時君(影山)の歌集に、古ながらの丈夫の述志を展き、国の彼岸を誓ひつつ、加ふるに男子の抒情を教へられたことは、わが国風のなほ地におちず、ここに一箇卓越の日本精神を形成するものと知られ、かの悠遠な歓喜を思つて感銘を耐へがたくしたものである」と絶賛しています。
金子 日本主義文化同盟は、斎藤茂吉らアララギ派の写実主義短歌を批判しました。また、『怒涛』は昭和十四年に文藝春秋社糾弾を開始します。『文藝春秋』は、リベラル商業誌として、日本浪曼派の対極にある「衆声の俗悪化、芸術の技術化、精神の拝物化」傾向を煽っていたからです。『怒涛』(昭和十四年新年号)に掲載された日本主義文化同盟の「文藝春秋社糾弾宣言」には、「文藝春秋社こそは日本文学界の幕府である。文藝春秋こそは日本文学界の現状維持派である。……文藝春秋社を撃滅することなくしては、絶対に日本文学界の革新を望むことは出来ない」と記されています。特に名指しで糾弾されたのが、菊池寛と久米正雄です。菊池と言えば、数年前に主婦向けの昼ドラとして放映された『真珠夫人』の原作者として知られます。あれは、華族の令嬢が男を弄ぶという不倫小説です。また、菊池の『日本建国物語』に非日的部分があるとして日本主義陣営の批判を招いていました。
 『怒涛』による執拗な糾弾は功を奏し、『文藝春秋』にも変化が見られました。同誌昭和十七年新年号には、保田の「攘夷の精神」が載り、また短歌維新の会(後の新国学協会)から創刊された『ひむがし』が紹介されています。
 一方、菊池は国策協力を強めつつ、『忠臣菊池武時』などを書くようになります。内閣情報部から作家を動員して「ペン部隊」として従軍するよう命じられた菊池は、希望者を募って大陸へ渡り、揚子江作戦を視察しています。一方の久米も、昭和十七年に日本文学報国会の初代事務局長に就いて「文学報国」を叫びました。こうした話は、戦後の文学史ではほとんど取り上げられませんね。
ヴルピッタ 菊池は体制に協力する一方、親英米派と目されていました。影山らは、昭和十五年に米内光政首相らの暗殺を計画し(七・五事件)、禁固五年の実刑判決を受けましたが、その計画の中で、菊池もターゲットになっていたとされています。
山本 戦後の文学研究においては、文化維新系の文学は排除され、国策文学、戦時文学という枠の中で語られるに過ぎません。
 昭和十三年三月の『日本浪曼派』終刊号を見ると、それほど日本主義的なものを感じません。むしろ、日本主義への傾斜は『日本浪曼派』終刊の後だと思います。保田は影山ら民族派との関わりを深めるようになり、亀井勝一郎との接点は少なくなっていきます。
 亀井は、昭和十一年の二・二六事件を起こした青年将校に対するシンパシーを示していましたが、その時点では未だにマルクス主義の影響が残っていました。それでも、そうした社会全体の憂国運動の高まりの中で、亀井も日本回帰に向かいました。彼がマルクス主義と離れたのは、やがて『大和古寺風物誌』につながるお寺巡りを、昭和十三年に始めてからです。

日本浪曼派とファシズム
── 日本浪曼派とファシズムの関係はどう捉えるべきでしょうか。
ヴルピッタ ファシズムは、一般的には「強権的、独裁的、非民主的な性格を持った政治運動」などと定義されていますが、そうした定義はファシズムという現象の本質を把握しているといえません。そのため、戦前の日本にファシズムはあったのかどうかについても様々な意見があります。例えば、所謂「日本的ファシズム」の研究に長い間圧倒的な影響を与えた丸山眞男はそれを同視し、その結果、純粋の民族派運動から軍事政権まで、全てをファシズムと捉えましたが、現在、この解釈は通用しなくなりました。
 また、イタリアのファシズムとドイツのナチズムとは異なるという考え方もあります。つまり、ファシズムはそれぞれの国の國體、本質にかかわるので、それぞれの国で異なる形で表れてきます。また、ファシストにも「一人一党」的なところがあり、ファシストの数だけファシズムはあるとさえ言われます。
 ファシズムを「民族的・国民的・英雄的な政治ミュトス(神話)」と定義すれば、日本浪曼派や日本の維新派とファシズムとの関係についても論評できるでしょう。実際、日本の維新陣営に対してファシズムの影響があったことは確かです。イタリアでは、一九二二年十月には、ムッソリーニ率いるファシスト党、民兵組織「黒シャツ隊」が、政権を要求してローマに進軍し、ファシスト政府を樹立しました。津久井龍雄のように、このローマ進軍に影響を受け、日本でファシズム運動を起こしたいと考えた維新派もいました。
 一方で、日本の維新陣営の中にファシズムに対する警戒感があったことも事実です。ただ、昭和維新運動を分析する際には、西洋の没落も視野に入れて、ヨーロッパのファシズムとの関係も視野に入れる必要があると考えています。私は、福田和也さんから「純正ファシスト」と呼ばれましたが、私は保田や日本の民族派と実際に交流し、思想的に通ずるものがあると感じました。保田がファシストだということはできませんが、福田氏が述べたように、保田は「ファシズム運動との関係を持っていた」というのが適切だと思います。
 故人の敬称は略させていただいた。次号に続く。

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