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【座談会】ロマノ・ヴルピッタ×金子宗德×山本直人×荒岩宏奨「日本浪曼派座談会 日本回帰・第五の波に備えて 上」(『維新と興亜』第6号、令和3年4月)

いま、我が国はグローバリズムに席捲されている。この局面を打開すべく、新たな日本回帰の波、維新運動の波は果たして訪れるのか。
 その際、重要なカギを握る思潮の一つが、日本浪曼派の思想ではないだろうか。日本浪曼派は、昭和維新運動とも深く関わっていたからだ。その中心人物、保田與重郎は、昭和十(一九三五)年に亀井勝一郎らと『日本浪曼派』を創刊し、民族主義文学を主導した。維新運動に挺身した大東塾の影山正治塾長も保田に親炙している。
 我々はいま、次なる維新運動、日本回帰の波に備えて、日本浪曼派から何を受け継げばいいか。そこで、ロマノ・ヴルピッタ氏(京都産業大学名誉教授)、金子宗德氏(里見日本文化学研究所所長)、山本直人氏(東洋大学非常勤講師)、荒岩宏奨氏(展転社代表取締役)の四名にご出席いただき、座談会を開催した。金子氏の司会により、昭和維新運動と日本浪曼派の共振、「文明開化の論理」との対峙、「イロニーとしての日本」、隠遁詩人として暮らした戦後の保田與重郎などについて議論していただいた。
 本号より、上・中・下に分けて掲載する。

日本浪曼派についての影山正治の定義


金子 本日は、「これからの時代、民族派は日本浪曼派から何を受け継ぐべきなのか」について語っていただきたいと思います。日本浪曼派は「日本回帰」の風潮と深い関係がありますけれども、福田和也さんなどが日本浪曼派を積極的に取り上げた平成の初めと異なり、日本浪曼派に対する関心は決して高くありません。
 ただ、「日本浪曼派とは何か?」と改めて問われると困る部分もあります。この点について、私は京都大学の大学院在学中に「『日本主義』文學論序説─〈日本浪曼派〉の再検討を目指して」(『日本文化環境論講座紀要』平成十五年三月)という論文を書き、文学研究者と民族派の活動家とにおける認識の乖離を指摘し、両者を統合する仮説を提示しましたが、そのままになっています。今日の座談会で、この点に関する新しいヒントを得たいと思っています。
 そもそも、日本浪曼派という語は、保田與重郎が関係していた文芸誌『コギト』(昭和九年十一月号)に掲載された「日本浪曼派・広告」で初めて用いられ、昭和十年三月、文芸誌『日本浪曼派』が創刊されました。この『日本浪曼派』に限るという見方は可能です。
 この広告に名を連ねたのは、神保光太郎・亀井勝一郎・中島栄次郎・中谷孝雄・緒方隆士・保田與重郎の六人です。さらに同人として、伊東静雄・芳賀檀・太宰治・檀一雄・山岸外史・林房雄・萩原朔太郎・佐藤春夫・中河與一・三好達治などの名前が並んでいますが、世代も文学者としての傾向も多岐に亘り、一括りで語るのは困難です。加えて、一般的に日本浪曼派の一員と目される浅野晃は、確かに『日本浪曼派』の執筆者ですが同人ではありません。
 では、どう考えたらよいのか。そこで興味深いのは、民族派の指導的人物の一人である影山正治(大東塾塾長)が『民族派の文学運動』に記した以下の定義です。
 「『コギト』『文藝日本』『文藝文化』『文藝世紀』『新日本』『公論』『文化維新』(『怒濤』改題)『ひむがし』――その他、堀辰雄氏を中心として出されて居た詩の雑誌『四季』、前川佐美雄氏のやつてゐた短歌の雑誌『日本歌人』等は、いづれも広い意味での日本浪曼派系列の雑誌と見てよく、第二文明開化時代とも云ふべき戦後世相の反動的評価によれば『悪評高き右翼雜誌』と云ふことになるわけだが、僕をして云はしむれば、その表層末端はともかく、その本質面に於ては、それぞれ一時代の『民族の華』であつたと思ふ」
 このような影山の定義に対して、文学研究者は政治主義的だとして一顧だにしませんが、国体と文学という思想史的な観点からすると極めて興味深い定義です。
 本日お集まりいただいた皆さんには、こうした観点から日本浪曼派について語って頂ければと存じます。とりわけ、『維新と興亜』という本誌の趣旨に照らして、日本浪曼派と維新、日本浪曼派とアジアという観点について議論したいと存じます。
 その手始めに、皆さん方に御自身と日本浪曼派との出会いについて語って頂きましょう。

古典から生命力を追求するロマン主義


ヴルピッタ 本日の座談会参加者には大きな世代の差があります。金子さん、山本さん、荒岩さんは、私の息子あるいは孫に近い年齢であり、世代によって日本浪曼派のとらえ方がどう異なるか興味があります。
 私は、ヨーロッパにおけるロマン主義研究のブームをきっかけに、日本浪曼派に関心を持つようになりました。一九五〇年代の終りに、評論家のポール・セランが『ファシズムのロマン主義』という研究書を出版しました。ファシズムに共感していたフランスの文学者について書いた本です。また、イタリアでも、ファシズムはロマン主義なのか、古典主義なのかが話題になっていました。
 イタリア民族の精神的な源泉は、古代ローマまで遡ります。そのため、古典の提唱こそが、イタリア人のロマン主義の道でした。古典から生命力を追求するイタリアのロマン主義は、日本のそれと似ていると感じたのです。
 私は、一九六一年にローマ大学を卒業し、その翌年日本に留学して東京大学文学部の研究生となりました。昭和四十年代の半ば頃に、私が読んでいた『文学界』や『解釈と鑑賞』などの文学雑誌で、ナショナリズムとロマン主義に関する特集が組まれ、日本浪曼派と保田與重郎の存在について具体的な知識を得るようになりました。そして、私が日本文学に求めていたものが、そこにあると直感したのです。その後、保田先生とお付き合いするようになり、本格的に日本浪曼派を研究するようになったのです。
金子 イタリアのファシズムと日本浪曼派とに共通性を見出されたのですね。
ヴルピッタ 私は、ファシズムはヨーロッパのロマン派の流れをくんでおり、日本浪曼派を昭和維新の枠組みの中で考えると、イタリアのファシズムと日本の民族派は、「民族の源泉に戻る」という点でロマン主義的な共通性があると思います。

百五十年の間に起こった四回の日本回帰


山本 日本浪曼派のブームについて言えば、日本回帰という現象は明治維新から今日までの約百五十年の間に、少なくとも四回ありました。第一の日本回帰は、明治二十年代に起こりました。これは明治政府が推進した文明開化に対するリアクションとしての日本主義です。第二の日本回帰は、昭和初期です。昭和維新運動は、戦時中の国策やナショナリズムと混同されやすいのですが、もともとモダニズムへの反省としての日本回帰という流れの中にあったのではないかと考えています。日本浪曼派は、この第二の日本回帰において登場しました。
ヴルピッタ 昭和初期の激動の時代を、文明開化による近代化・西洋化の行き過ぎと矛盾に対する文化上・政治上・社会上の反抗として解釈すれば、日本浪曼派はこの反抗の文学上の表現でした。のみならず、日本浪曼派はこの反抗に思想的な基盤を与えました。
山本 その通りですね。
 そして、第三の日本回帰は一九六〇年代です。敗戦後、民主主義的、進歩主義的、革新的な風潮が十年以上続きましたが、一九六〇年安保で一つの区切りを迎えました。その時に、改めて「日本的なものとは何か」ということが問い直されたということだと思います。橋川文三が『日本浪曼派批判序説』を書いたのは、昭和三十年です。それまでは、日本浪曼派は戦争協力者というレッテルを張られてきたわけですが、橋川は批判という形をとりながら、実は、かつての自身の保田與重郎に対する愛情を語っているのです。これは、日本浪曼派のイロニーということを考えると、正しい継承の仕方なんですね。戦後の言語空間の中での日本浪曼派の継承者が橋川だということにもなります。一方、文壇では三島由紀夫や五味康祐が右派の側から日本浪曼派を継承しました。この二つの日本浪曼派継承の流れが昭和の終わりまで続きました。
 第四の日本回帰は、戦後五十年を迎えた平成七年前後だと思います。福田和也さんが平成五年に『日本の家郷』を書き、平成七年に『文学界』で連載「保田與重郎と昭和の御代」を始めたことに象徴されています。
 では、私はどのように日本浪曼派と出会ったのか。昭和の終りは、高度資本主義が勃興し、アメリカ的なものが盛んな時代でした。私は昭和四十八年生まれですが、生まれた時からアメリカ文化に親しんできました。映画はハリウッド、ファッションはアメカジ、音楽は洋楽に親しんできました。ただ、しばらくしてから東映時代劇を見たり、『のらくろ』を読んだりするようになりました。それらが、非常に新鮮なものに感じられました。日本浪曼派と出会う前に、十代の私には「日本的なものとは何か」という問題意識があったということです。
 高校時代、唯一得意だった科目が古典でした。平安朝の文学が、幼い頃から親しんできた時代劇や日本的なものを象徴する文学だと感じ、そこに興味を持つようになったのです。そして、古典文学を勉強しようと志し、東洋大学の文学部に進学しました。そこで、源氏物語や伊勢物語に取り組みましたが、どうもなじめないものがありました。
 古典の勉強と並行して、むしろ苦手だった現代文解釈の力をつけるために文芸評論を読みました。その時、小林秀雄の『私の人生観』に出会いました。しかし、私は小林の文章よりもその解説を書いた亀井勝一郎の文章の方がよほどいいと感じたんですね。非常にわかりやすくて、「近代日本とは何であるか」という亀井の問題提起が重要だと感じました。以来、古本屋を回りながら、亀井の本を一冊一冊求めていきました。
 一方、大学二年の時に受講した「日本語論」という「万葉集と歴史的仮名遣ひ」の授業を担当していたのが、その後師匠となる桶谷秀昭先生です。桶谷先生の本を読むようになり、そこで保田與重郎という存在に辿りつきました。そして、保田が問題提起した古典と現代との関係、日本回帰との関係が、ちょうど自分の問題意識と合致したのです。では、保田とともに『日本浪曼派』創刊に加わった亀井の日本回帰とはいかなるものだったのか。戦後も文学者として生き残った亀井は、平和主義的な主張をしていたので、どうも日本浪曼派とは一致しないと感じていました。その違和感について、私は卒論で書いたのです。大正教養主義、マルクス主義、明治時代のキリスト教を経験した亀井が、なぜ日本に回帰していったのか。これは現代につながる問題提起です。
 亀井が生まれた函館は、ハイカラでエキゾチックな街です。こうした文化で育った亀井が保田と出会い、大和古寺をめぐって仏像と出会います。もともとの亀井の関心は、和辻哲郎の『古寺巡礼』ような大正教養主義的なものでした。しかし、『大和古寺風物誌』などでは、「本来仏像は有難く拝むものだ」という結論に至るのです。この亀井の日本回帰を導いたのが、保田だったのです。
 万葉集の土地を自分の庭のように歩いていた保田のエッセイには、非常に土着的なものを感じます。これに対して、亀井はハイカラな世界から日本的なものを追求していきました。最後まで、亀井にとって日本的な大和古寺の世界は、エトランゼ(異国の人)でした。だからこそ、彼はそれに魅かれたのです。

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