slave(奴隷)とはスラブ人のことである バルカン半島の歴史

奴隷は歴史に出てきますよね、黒人奴隷とか。しかしそれは昆虫にもあるのです。例えばハチやアリなどです。サムライアリがクロヤマアリの巣を襲撃し奴隷にするのです。スラブ人には、東スラブ人、西スラヴ人、南スラヴ人がいます。ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人が東スラブ人でスロバキア人、シレジア人、ポーランド人、カシューブ人、ソルブ人が西スラヴ人でスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、ボシュニャク人、ブルガリア人、マケドニア人、ポマク人、ゴーラ人が南スラブ人です。その「スラブ」を英語にするとslavsで「奴隷」を英語にするとslaveです。どうしてこうなるのでしょうか、それは古代ギリシアにさかのぼります。ギリシアが勢力を拡大してスラブ人に出会い「おまえたちの話しているの言葉は何だ?」と聞くと「言葉(スラブ)だ」と答え、それからスラブ人と呼ばれるようになりました。そしてギリシアやローマでは多数のスラブ人たちを奴隷にしました。ギリシアやローマ以来、スラブ人は女奴隷が多かったのです。それは肌が白く金髪で美人が多いからです。そして性奴隷にされたのです。その後、バルカン半島やウクライナでスラブ人狩りが行われてゲルマン人やイスラム教徒の奴隷にされました。モンゴル帝国がせめて来た時にモンゴル兵は美しいスラブ人の女性たちを奪い合いました。現代でも東欧やロシアにはモンゴル人の遺伝子が多数検出されているのです。その後オスマン帝国の時代でも奴隷にされます。

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写真 wiki「スラブ人」より引用

上の地図で色のついたところがスラブ人の暮らしているところです。イラン系民族のスキタイのうち農耕スキタイがスラブ人の先祖です。スラブ人に多いハプログループR1aはスキタイからも見つかっています。ハプログループR1aは 東欧、中央アジア、南アジアやイランに多いのです。しかし南スラブ人に多いのはハプログループIです。

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写真 wiki「ハプログループI」より引用

上の地図から南スラブ人が多く暮らしているバルカン半島に多いことがわかると思います。それはどうしてでしょうか言語交替が起こったからです。例えば純粋な人はいないであろうが現代のアイヌ人は日本語を話していたりだとか古代エジプトではエジプト語を話していたが今ではアラビア語が使われていたり中央アジアではインド・ヨーロッパ語族イラン語派が使われていたが今ではテュルク諸語が使われている、他には昔のアイルランドではインド・ヨーロッパ語族ケルト語派が使われていたが現代ではほとんどの人が英語を使っているようなことが言語交替である。スラブ人は自分たちと同じ民族である王朝がほぼないのです。例えばイギリスの王室やロシアの王室もヴァイキングであるノルマン人なのです。バルカン半島はローマ帝国、ビザンツ帝国その後、ロシアやバルカン半島にモンゴルに支配されてからバルカン半島は長いあいだオスマン帝国に支配されて19世紀後半に独立していく。1914年6月28日にオーストリアのフランツ・フェルディナント大公がセルビア人の青年に暗殺されたサラエボ事件が起きたのもバルカン半島のサラエボです。第一次世界大戦の敗戦国であるオーストリア=ハンガリー帝国はその領土の多くを失った。戦後処理でセルビア王国主導の汎スラヴ主義のもと南スラブ人国家を創ることが進められた。セルビア、モンテネグロと旧オーストリア・ハンガリー帝国領のスロベニア、クロアチア、ボスニアが合併してユーゴスラビア王国が1918年にできた。第二次世界大戦が始まってドイツが侵攻して国王が亡命して枢軸国によって分割された。枢軸国のドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアは、ユーゴスラビアの国土の一部をそれぞれ自国に併合し一部は独立したが傀儡政権が置かれた。1942年にヨシップ・ブロズ・チトーはユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議を創設した。1943年、チトーはユーゴスラビア民主連邦の樹立を宣言した。1945年初めドイツ軍がいなくなった後ユーゴスラビア王国は再興されたが、チトーら共産主義者が権力を握ったため国王は共産主義者の制憲議会によって廃位され、国王は亡命状態での王位を主張した。12月2日、全土をユーゴスラビア連邦人民共和国と宣言した。その後、冷戦の時代になり、ヨシフ・スターリンの指揮下のソ連と手を組み、1946年8月9日と8月16日にはユーゴスラビアの領空を飛行していたアメリカの航空機を撃墜したことは冷戦下の初めての西側諸国の航空機の撃墜です。アメリカはチトーに不信感を持っており、アメリカは軍に対してユーゴスラビア侵攻を求めた。ユーゴスラビアとソ連の盟友関係にあるがスターリンもチトーに不信感を持っていた。スターリンが唱えていた一国社会主義を支持している国が多いなか、国を超えた国際的な革命(国際社会主義希求組織)を組織した。故トロツキーの国際共産主義を思い起こさせた、政敵・故レーニンの後継者スターリンを大きく苛立たさせた。スターリンは、ソ連が全ての東側諸国を支配がのぞみであった。その後ソ連とは決別した。独自の共産主義の構築をはじめチトー主義と呼ばれた。ソ連や 東ドイツ、東欧諸国が参加し政治的・経済的にソ連と連帯し、東欧諸国を再建のためのモロトフ・プランやワルシャワ条約機構

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写真 wiki「ワルシャワ条約機構」より引用

に参加することを拒否し、マーシャル・プランを受け入れた。1953年にギリシャやトルコとの間の軍事協定バルカン三国同盟を結びNATOと事実上間接的な同盟国になった。一定の自由市場経済も認められた。インド、エジプト、インドネシアとともに、非同盟運動の創設メンバーのひとつになった。冷戦下では非同盟中立の立場をとった。1971年にクロアチアの春と言われているクロアチア人の抗議が起こりセルビア人が権力構造を独占しようとしていると政府を非難した。クロアチア人であるチトーは硬軟両面の対処を取り、抗議行動に参加する民族主義を訴えた多数のクロアチア人は逮捕されたが危機の再発を避けようと改革などの政策を出した。1980年5月5日にチトーが没した。1984年冬季オリンピックがサラエボで開催されました。首相アンテ・マルコヴィッチは経済の民営化を進めた。マルコヴィッチは自由経済化、民主化へと移行させる政治家として人気を得た。チトーの死後の八十年代は民族主義が再びユーゴスラビアで勢力を増し、コソボでアルバニア人とセルビア人の間で緊張が高まっていった分離運動が起こった。ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、スロベニアは独立派寄りが握って、スロベニアは住民投票で独立を求め、クロアチアでは戦闘が発生した。スロベニアとクロアチアの両国は1991年6月25日に独立を宣言した。1991年9月8日にマケドニアも独立、スロベニアとの衝突は短期間で終わり、1992年1月にはクロアチアとユーゴスラビアは国連の監視の下で休戦に合意した。その後ボスニア・ヘルツェゴビナも独立しモンテネグロとセルビアはユーゴスラビア連邦共和国になった。民族対立の紛争は各地で起こっていたが少数派のアルバニア人の民族主義者によるマケドニア紛争も2001年に終結した。2003年にユーゴスラビア連邦共和国はセルビア・モンテネグロに変わり2006年にセルビアとモンテネグロは別れた。2019年にマケドニアは北マケドニアに国名を変更した。バルカン半島はとても複雑な歴史ですね。

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