金星 - 牡牛座と天秤座の星

「UFOが飛んでいます!」

「ロケットが飛んできているのではないか?」

よく晴れた夕方、国立天文台にはこんな電話がかかってくることがある、という話を聞きました。
これはほとんどの場合、金星を見た人々からの反応なのだそうです。

金星は太陽と月をのぞけば、全天で最も明るい天体です。東京の街中であっても、晴れて空が切れていれば、肉眼ではっきり見ることができます。「宵の明星」「明けの明星」のように、ズバリ「明るい星」の名を持つ金星は、誰の目にも妖しいほど美しく、「ルシファー(堕天使)」と呼ばれることさえあります。

金星は水星と同じく、地球より内側の軌道を回ります。ゆえに、地球から見ると常に太陽の近くにあります。つまり「夕方」と「明け方」しか見えません。茜空や黎明のグラデーションの中に、キラキラと輝く金星の姿をみれば誰もが「美しい」と感じます。

ゆえに、金星は古来、「美の星」とされてきました。

星占いの世界で金星に与えられたイメージを、キーワードで列挙してみましょう。

愛と美の女神・ヴィーナス、美、愛、金、財宝、宝石、友情、仲間づきあい、結婚、音楽、絵画、色彩、甘い歌声、装飾、チャリティ、アクセサリーやジュエリー、お祭り騒ぎ、怠惰、金銭、美容師、遊び人、金融、度量衡、両替、はかること、水の生き物、店をひらくこと、笑い、楽しみ、子ども、食事、穀物、食料、女性に関するサービス、香水、顔、ロマンス、紫色、白、etc.,

ギリシャ神話のアプロディテはローマ神話のウェヌス(ヴィーナス)と同一視されており、金星はこの女神の名で呼ばれるようになりました。ゆえに、現代でも金星は「ヴィーナス」です。
アプロディテは一説に、海に生まれたとされており(名画「ヴィーナスの誕生」を想起する方も多いでしょう)、「海」のキーワードが時々、出てきます。

この星に「支配されている」星座は、牡牛座と天秤座です。金星を、両星座の「守護星」と呼ぶ向きもあります。牡牛座と天秤座の人々は、金星を「自分の星」と呼んでおかしくありません。お守りのような「私の星」があるとすれば、牡牛座の人と天秤座の人々にとって、それは金星です。また、アセンダントというポイント(生まれた瞬間に、東の地平線にあった星座。生年月日の他に、生まれた時間と生まれた場所の情報を合わせて算出される)が牡牛座・天秤座に位置している場合も、金星を「自分の星」と呼べます。

牡牛座の「美」、天秤座の「美」。

牡牛座も天秤座も、快美を愛し、ゆたかさを愛し、芸術を愛する星座という点では共通しています。ただ、「美しい」ということの定義が、両者では少し、異なります。

たとえば、牡牛座の人と天秤座の人が、同じ花の咲き乱れる庭を見たとします。
牡牛座の人は、一輪一輪の花の美しさに魅せられるでしょう。ある花の色合いを愛で、この花の形を愛し、というふうに、まるで「花になった」かのように、花の世界に没入できます。

一方、天秤座の人は、その花園の「全体像」を賞賛するでしょう。全体の花の配置、バランス、計算された季節ごとの風景の巧妙さなど、そこにある花どうし、ものどうしの「つらなり・関係・関わり方」を愛するのです。おそらく「この花をあの花と変えたらどうだろう」「ここにもう一色、こんな花を付け足してもいいかもしれない」など、更なる案を考えつくかもしれません。コーディネートの美、関係性の美が、天秤座の人の価値観の中心にあります。

牡牛座の美は「絶対的・主観的」で、天秤座の美は「相対的・客観的」と言えるかもしれません。牡牛座の人々の目指す美は、おのずとその心の中からたちのぼってくる美の完成形です。一方、天秤座の美は、第三者も、その又外側にいる人にも、同じように「美しい」と感じられなければならないのです。

たとえば「おいしさ」に「正解」はありませんが、変更不能な絶対性を含んでいます。牡牛座の世界においては、たとえ比較し迷うことがあろうとも、どこか、結論は初めから決まってしまっているようなところがあります。

一方、ある種のデザインやコーディネートのバランスには、ひとつの「正解」が存在しうるように思います。これは、天秤を水平にバランスさせる点がたった一つしかない、ということに通じます。ただ、その「正解」は必ずしも「絶対的なもの」ではありません。また、天秤がきちんとバランスするまで、何度でも調整を試みることにもなります。

2種類の「お金」。

「お金」というものが金星の配下にあることも、とても面白いことだと思います。たとえば、古代の世界では神々に祈りを捧げるのに、牛を屠ることがありました。神々から借りているものを天におかえしするために、牛を捧げるわけです。これはいわば、牛が神々への聖なる決済手段となっている、と言えるように思われます。この場合、牛は他のものとは変えられません。神様に求められた「牛」を、なにか他のもので「両替」するわけにはいきません。牛がないからブタでお願いします・・・というお願いを、たぶん、神様は、聞いてくれそうもありません。

一方、天秤座の世界は、ある意味「両替の世界」です。度量衡の世界であり、文字通り、天秤を使って物事と物事の関係をバランスさせるのが、天秤座の目指すところなのです。天秤座の世界の「お金」の考え方は、契約や換算、両替と結びついています。天秤座の世界の「お金」は、牡牛座の「お金」のような、両替の聞かない絶対的なものではなく、相対的で交換可能なものなのです。

私たちの生きる社会でも、牡牛座的なお金と、天秤座的なお金の両方が流通しています。牡牛座的なお金としては、たとえば寄付金や冠婚葬祭で「包む」お金などがそうです。お葬式ではピン札はだめだとか、逆に結婚式では新札でなければならないなど、それが単なる経済的な手段ではなく「聖なるもの」である気配がビリビリ感じられます。「新札」と「使ったお札」では、貨幣としての価値は変わりません。でも、冠婚葬祭のような場では、お札は単なる貨幣ではなく、ひとつの絶対的なモノとして扱われます。新札がないから使用済みのお札で、という「等価交換」が成立しないのは、すでにそのありかたが変わってしまっているからです。

金星と牡牛座の結びつき。

牡牛座と金星は、非常に古い時代から結びつけられてきました。メソポタミア文明の遺跡にも、大きな輝く星と牛が寄りそうように刻まれた図が見られます。
ギリシャ神話における牡牛座の由来は、大神ゼウスが変身した、美しい、まっ白な牛です。ゼウスはこの姿で、美少女エウロパの興味を引こうとしました。「美しさ」と「牛」とがここでも、セットになっています。

聖なる牛、大地の豊穣、自然の美。牡牛座の「美」は、私たちが世界からもたらされるあらゆる富の美しさなのかもしれません。私たちはそれを自分の手で作ることはできませんが、例えば絵画を描き、詩を綴って、その美を模倣し、写しとることをします。キリスト教の聖人ルカは最初に聖母マリアの像を描いた人ということになっていますが、この人も牡牛座と結びつけられることがあるそうです。

大自然からの恵みを、私たちは享受し、味わい、血肉に変えます。また、それをさらに豊かなものにすべく、農耕にいそしみ、庭園を造ります。牡牛座の美は「感じとるもの」です。「感じる」ことは、だれにもできる簡単なことのようにも思われます。でも、本当にそうでしょうか。心が豊かでなければ、風景の美も、食物の佳味も、私たちの生活を素通りしていきます。芸術を楽しむことが「心の豊かさ」と結びつけられるように、「感じとる」ことは決して、受動的なばかりの営為ではないように思われます。

金星と天秤座のつながり。

一方、天秤座が「美」の星座である由縁は、「正義・正しさ」との結びつきに寄るように思います。「美しい行い」「心の美しさ」といったように、私たちは「美」と「善」を容易に結びつけます。ニュースの映像に映し出された犯罪者が美しい容貌をしていると「なぜあんなに美しい人が、こんなに悪いことを?」と言う人は珍しくありません。美しいということが、「善」のイメージと、分かちがたく結びついていることの証だと思います。

天秤座の「天秤」は、正義の女神アストライアが手にする、善悪を測るための天秤座という説があります。今でも「天秤」は法の象徴で、裁判所の前には目隠しをして天秤を手にした法律の女神テミスの像がおかれています。善と悪は絶対的なものではなく、あくまで天秤の左右の皿にのせてぐらぐら揺れるような、相対的な関係性の中にある、と言えます。更に言えば、テミスが「目隠しをしている」のは、たとえば「美しい容貌ならば正しい人であるはずだ」という、人の心に刻みつけられたイマジネーションの連携に陥らないための手だてなのかもしれません。

天秤座の世界では、美は「考えられる」ものです。「それが美しい行いであるかどうか」ということは、よく考えてみなければわからないことです。天秤座の「美」は、ある種のシステムの中に生まれる、と言ってもいいかもしれません。たとえば、上品なマナーや優雅な振る舞い、社交上のルールなどが、元を辿れば衛生や身を守るための手段であったり、純粋に合理性に基づいた行動様式の積み重ねであった、ということは珍しくありません。茶道の所作にいちいち意味があるように、天秤座の世界の「美」にもまた、「意味」が不可欠なのです。

食べものの美味しさや花の香りの心地よさは、たったひとりでも享受できます。でも、天秤座的な「美」は、人間が二人以上存在したうえでの「関係性」の中で初めて生まれます。ある行いが美しいかどうかというようなことは、無人島にたったひとりでいるような状態では、問題にならないでしょう。「正義」は、人が複数集まったときに生じる概念です。天秤座的な美もまた、私たちが集団で生きる生き物である、というところから生まれるものなのです。

愛の星・金星

天秤座は「愛」の星座とされます。一方、牡牛座の世界にはあまり「愛」が出てきません。これは、牡牛座の世界には愛が薄いということではなく、おそらく「愛」という観念的な言葉よりも手前に、牡牛座的な愛のかたちがある、ということではないかと思います。更にいえば、天秤座の「愛」もまた、一般にイメージされる甘く切ない「愛」の世界とは少し違っています。

天秤座は「契約」の世界です。一昔前は「お見合い」で結ばれることが一般的であり、お見合いの際には写真や「釣書」が交わされました。釣書という言葉は家系図のイメージから生まれたという説を耳にしましたが、両家のつりあいがとれるかどうかを見るための資料だと考えると、いかにも「天秤座」的です。アンバランスな組み合わせではうまくいかない、という思想がそこにあったのだと思います。

一方、牡牛座の世界は「五感」の世界です。そこには「好き・嫌い」がどっしりと横たわっています。なにかが好きだとか、嫌いだとかいう思いは、成長によって変わることはありますが、「バランスをとる」ようなことはむずかしいだろうと思います。恋愛感情の「好き」と、五感の世界のような「好き」の区別が、牡牛座の人の心の中ではなかなか、つきにくい、という傾向もあるようです。それでも、「好き」になれない相手とはそもそも、愛し合うことは難しいでしょう。最初にあるのは「好き」という気持ちで、そこから深い愛情が発展する可能性が生まれます。牡牛座の世界にあるもっともプリミティブな「好き」という思いは、愛の原点と言えると思います。

比較と、愛と。

私たちは衣食住から人間関係に至るまで、様々なものに心惹かれます。その「心惹かれる」ものたちには、交換可能な面と、絶対に交換できない面とがあります。
たくさんの人たちと恋愛ができますが、その全員を同じように愛することはできません。
たくさんの資産を色々な形で貯め込むことができますが、ひとたび、インフレや経済危機、社会の動乱などが起これば、一気に吹き飛んでしまうことがあります。
比べれば、選ばねばなりません。選んだら、他のものと比べられません。天秤座が比較して選び取る世界ならば、牡牛座は選び取ったものを味わい尽くす世界、と言えるかもしれません。

たくさんある選択肢のうちから最高のものを選びたいという思い。その一方で、手に入れたものを絶対に自分のものにしておきたい、という思い。私たちが美しいものや愛しいものに対して抱く気持ちにはどこか、両義的な面があります。

『100まんびきの ねこ』という絵本があります。あるおじいさんがネコを飼うにあたって、世界で一番かわいいネコを探し出そうとする物語です。100万匹のネコを全部比べて、一番いいネコを一匹だけ選べばよい、とおじいさんはかんがえますが、結局、真実は、そうではありませんでした。

一方、恋愛文学の古典中の古典、『源氏物語』には、光り輝く源氏の君が恋したたくさんの女性の姿が描かれます。この作品は文学である以上、さまざまな読み方ができますが、そのひとつとして、幾多の素晴らしい女性をわがものとしても尚、新たな女人の中に憧れの結晶のような何かを追い求め続けずにいられない源氏の姿は、「比較する」ということの本質を教えてくれる気がします。比較は決して、虚しいだけのものではなく、この世の際限のない多様性とどこまで向き合えるか、という、世界への人間の挑戦のようなものなのかもしれません。

かけがえのないものと、追い求め続けること。
金星の世界はそんな、人間のあくなき本質を物語っているように思われます。


(次回「火星 - 牡羊座と蠍座の星」は、2018年7月中に更新予定です。)