自分とは、何者か。(4/5)

前回からの続き。

私たちは幼い頃から「将来の夢は何ですか?」と問われる。何になりたいか、どう生きたいか、何が好きで、どの道を選ぶのか。そんなことを幼い頃から問われる。今勉強しなければ、大人になってから困るよ! と言われる。いつかは独り立ちするのである。育った巣穴から出ていくことが前提である。

また、子どもの頃から「恋愛」と「結婚」も意識させられている。映画や漫画、ドラマ等、あらゆる物語の中で人々が恋に落ちる様を目にする。いつかは自分で愛する人を見つけなければならない、という意識を持たされる。自分と相性の良い人間はどんな人なのか、「運命の人」は決まっているのか、その人に、出会えるのか。

こうしたメッセージの中には、「将来というものは、自らフリーハンドで描けるキャリアと、自由意思で選び取れる人間関係でできている」という思想が読み取れる。階級制度の撤廃、職業選択の自由、差別を行わせないための様々な法制、自由恋愛、親の承諾の要らない結婚制度。古い価値観を持ち出す人々もまだ存在はするが、それらに強制力はなく、一応、反論することもできる。少なくとも建前上は、まことに自由で、いい世の中になったのである。

本当に、そうなのだろうか。

オイディプスと「真景累ヶ淵」の物語を私が強引に重ね合わせてご紹介してきたのは、そのあたりの不信感なのである。

二つの物語に共通しているのは「自分は何者か」ということへの答えが、「生まれおちたところの人間関係と、持って生まれたなにか」だったということだ。

オイディプスの場合は、それは両親や育ての親などにまつわる諸関係だったし、「お告げ」というものがそこに輪をかけていた。両親もまた、「お告げ」あるいは「呪い」からは、自由ではいられなかったのだ。

新吉の場合は、深見新左衛門が鍼医宗悦を斬り殺した、あの冬の夜の「因縁」から、すべての物語が流れ出している。新吉はその時点ではすでにこの世に生まれおちていたが、彼とは関係ないはずの親の人間関係が、彼を運命の輪に絡めとっていった。

そこには呪いがあったがゆえに、彼らは運命から逃げ出せなかった、ということになっている。呪いというのは、人生を外から縛り付けてくるような、孫悟空の頭の輪のようなもので、その外側には決して逃げられない。


もう一つの「運命」。

ここで、面白いことが一つある。

それは、「真景累ヶ淵」の、新吉の話とは別に展開していく、もう一つの筋である。もとい、新吉の話と無関係というわけではないのだが、その結びつきは間接的だ。

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マルジナリア・2

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