補足(訂正)。

誠に僭越ながら、こちらに寄稿させて頂いて、昨日見本が届いた。

まず手に取って、判型がすごい!ためしに「現代思想」と並べてみた。

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デカイ。そしてとてもカッコイイ。

この判型はおそらく、萩尾望都先生のタロットをいれたためだとおもう。ちなみにこちら、切り離してちゃんと使える厚み、しっかり感がある。スゴイ。

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美しい、の一言に尽きる。切り離したいけど!切り離すのがもったいない!!もう一冊買うしかないか。。

まだパラパラと流し読み程度だが、ナカミがとにかく濃い。たとえば映画や音楽などは「みんなでわいわい楽しむ」ことができるが、オカルトはちょっとそのへんが難しい。ゆえに、こうした企画では、色々な立場や角度から真剣に愛する人々の「告白」を見るような感触がある。秘密を打ち明け合っているような、聖なるものに触れるドキドキ感が、指先にぴりぴりする。

とてもお勧めです。是非。

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見本を手に取って、改めて自分の記事を読み返してみて、補足する必要があると感じたので、ここにそれを書かせて頂きたい。

今回、錚々たる書き手の中になぜか紛れ込んでしまった私は、「ここでなにをかけばいいだろう」と考えた。背伸びをしても始まらないので、一人の個人的なタロットのファン(?)として、日ごろ感じていることを、ベタに書こうと思った。

で、私は星占いの記事を書くのが主な仕事であるから、タロットとホラリー占星術(問いに答える形式の星占い)を自分でどう無意識に使い分けているか、という話から書き起こしていった。つまり、本当に個人的な「思い」だけのハナシである。こんなもんをこんな本格的特集に載せていいのかな……という後ろめたさ満載である。

書きすすめるうち、占いをしようとする人の心には、不思議な「倫理観」の世界が拡がっているのではないか、という話に立ち至った。現世的な倫理と、占いの世界の倫理は、かなりちがった風景になっている部分がある。そういうことを書いた。

詳細は本誌をお読み頂ければと思うのだが、中に一点、手が滑ったというか、書きすぎてしまったところがあった。それは「シャドウ」についてである。

ここで補足したいのは、「自分では自覚できていない自分」「ユング心理学で言う『シャドウ』的なもの」は、ホラリーでも(もちろんネータルでも)十分以上に読み解くことができる、ということである。私の寄稿では「それはタロットでないと」みたいな書き方になっているところがあるのだ。別の部分で「基本的に、ホラリーでもタロットと同様のことができる」とし、「これは私個人の感覚の話だ」と限定してはいるのだが、それでも、そこは間違っている。たいへん申し訳ない。

その件は、たとえばこちらのような本に詳しい。具体的なリーディングの例もある。

特にこの、マギー・ハイド先生の『ユングと占星術』には、最初に読んでからずっと好きなエピソードがある。私の中では勝手に「傘のハナシ」という愛称をつけ、自分なりに大切にしているエピソードだ。それは、ある占星術家の男性が体験した「ある日のできごと」をチャートとともに読み解いたところ、この男性の心に起こりつつあった重要な変容の兆候が浮かび上がった、という話なのだ。

「ある日のできごと」は、こんな感じである。

占星術家の男性が、ある日文房具店にカーボン紙を買いに行った。その店先で、突然、赤ん坊を抱いた見知らぬ女性に腕を掴まれ「その傘は私のものではないか、ちょっとみせてほしい」と言われた。男性は「人をいきなりドロボウ呼ばわりするのはやめてほしい」と反論したが、女性は納得せず、傘を見せろの一点張りで、結局男性は傘を握ったまま彼女に見せたが、彼女は納得しないまま、それでも引き下がって立ち去った。

こんなことがあれば、頭にきて当然だと思うが、実際にはこの男性は「彼女がそれでも魅力的に見えたのには驚いた」とコメントしていた。こんな、少々奇妙でどちらかといえば不愉快な話を、マギー・ハイド先生がイベント・チャートとともにあざやかに読み解いていく様はほんとうにおもしろくてワクワクするので、こちらを是非、お読み頂きたい。この男性の中では、自覚されないうちにある問題が起こっていて、その問題とその統合の方向性が、この偶然の出来事の中に、ありありと指し示されていた、というのである。

このエピソードは夜寝ている間に見た夢の解釈でもなく、創作でもない。ユングの言う、いわゆる「コンステレーション(布置)」の解釈である。その人の周りにおこった一連の出来事の一切が、その人自身の内面にあるなにごとかを象徴のことばで描き出している、という考え方だ。

投影のメカニズムが働いているのだという心理学的な洞察を得たのだとするなら、心的内容は個人の「内」と同様に、外的世界の出来事にも見られるはずである。どんな出来事、どんなホロスコープを通しても占星家は心と向き合うことができる。頻繁に「人生の断片」たる元型の現れを見ることができるのは、出来事(イベント)のホロスコープの中においてである。(マギー・ハイド著『ユングと占星術』青土社)

この通りだと私も思う。

なので、今回は、ほんとうに矛盾したことを書いてしまったと思う。自分でも正直、不思議な気がする。なんでこういう大好きなものが、頭の中でつながらなかったのか。

私はホラリーとタロットが基本的には同じように使えると認識していながら、日常的には「無意識に」使い分けていた。そのことが、この稿を書いて初めて、自覚的にわかってきた。今までは、自分がどのように使い分けているか、わかっていなかったのだ。その「無意識が自覚的になる」プロセスを、自分でもちょっとびっくりしながらそのまま書いていった結果、全体に荒っぽい記述になってしまったように思う。あるいはなにか別の、それこそ、上記のエピソードの主人公に起こっていたような「自覚されない問題」が私の中にも、起こりつつあるのかもしれない。

いずれにせよ、これは言い訳にすぎない。とても反省している。

多分、このところの私は本当に、星占いの中に自分の影を見いだせないような状態になっているのかもしれないな、とちょっと思った。膨大な量の星占い記事を書いているうちに、星占いと私の個人としての心の距離が、離れてしまったのだろうか。久しぶりに『ユングと占星術』を読み返して、星占いに魅了された最初の頃の気持ちが蘇ってきた。最近はとても木星が明るく輝いて、美しいのだ。

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今回の寄稿のなかで「星占いはアルファベット的で、タロットは漢字的」みたいな比喩を使った。これは、星は人間が恣意的に増やしたりすることができないけれど、人間が描いて作る「カード」は、人間の手で増やすこともできるし、絵柄などを変えることもできる、というイメージだった。歴史的にはもちろん、アルファベットも増えたり減ったりしただろうが、「人間が自由な意志で」のびのびとそれをやることはできない。一方漢字は、アルファベットより遙かに変化しやすい。くっついたり離れたり省略されたり、同じ意味を表す別の字があったりする。ある言語における全てのアルファベットを知ることはできても、全ての漢字を知るのは、容易ではないだろう。そういうイメージの比喩だった。

それでも不思議なのは、人間が作る記号や象徴には、定着するものとしないものがある、ということである。本来恣意的にどんどん増やせるはずのものなのだが、多くの人間の心に根を下ろし、世の中でちゃんと実用化されるものもある一方で、誰かが作ったけれどすぐに廃れて消え去ってしまうものもたくさんある。過去には使われていたが今は誰も知らない文字がある。「E電」みたいに、広めようとしたけれども広まらなかった名称がある。

自由に作れるけれど、それが「アリ」か「ナシ」かを決めるのは、集団的な人間の脳の働きで、そこには神秘的と言いたいほどの制約が存在している。占いのシステムにも、そうしたところがある。自由に作れるものではあるけれど、根付くかどうかは、また別の問題なのだ。今回の「タロットの世界」では、そうしたテーマも垣間見える気がした。