コメントの補足。

木星と土星が大接近する約20年に1度の「グレート・コンジャンクション」、12/22に迫ってきました。

マイカレンダー編集部から「カウントダウンの画像を!」と要請があり、お送りしました。

このコメントは、じつはレヴィ・ストロースの本にあったエピソードから思いついたものです(すみません!!このコラム最初にアップしたとき、エリアーデの本と間違えてました!!)。

最初、この稿を書こうとして本棚にこの本を探したのですが、どうしても!見当たらない!!状態だったんですが、今みつかりました!

私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受け身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。ほかの所では別のことが起こりますが、それも同じように有効です。選択はできません。まったく偶然の問題です。

これを読んで私は、「自分」というものの感じ方にもいろいろあるんだな、と、衝撃を受けました。「自分という現象」というのは何度か触れたことのある考えですが、「交叉点(交差点)」というのは、とてもおもしろいと思いました。

時間と時間の交差点、自分が見知ってきたことが重なる点、経験の交わる点、両親の出会いの交差点、ということも言えるのかもしれません。自分というのは、いろんな世界線の交わる点であって、なにか実体のある存在ではない、という感覚は、突飛なようで、けっこう再現できそうな気もします。通り過ぎていく物事がぶつかってなにかが起こっているけれども、それは永続的でもなく、保持されていくわけでもないのです。何か痕跡のようなものが残ったとしても、通り過ぎていったあとには、いつか、なにもなくなります。

たとえば数学的な「線と線の交点」には、面積はありません。中学か高校の時、数学の時間に、位置はあるけれども面積がない、という概念に出会った時、非常に奇妙な感じを受けましたが、「自分」というものもまた、面積のない、継続性も実体もない、なにかとなにかの交わる「点」であると感じられたら、どれだけ自由になれるでしょうか。

どこまでも自由になる、自分。しがみつかない自分。「君子豹変す」という言葉が、このところずっと心に去来しています。新しいものに出会ったら、自分も変わらずにはいられません。なにもかわらないようでも、わずかに、なにかがゆれ、動き、変容しています。

そんな思いで、このコメントを書きました。

。。。。。。


しかし、、著者ごとまちがえるとは、、、私の記憶はほんとうにあてにならん!!最初のバージョンを読まれた皆様、すみません!!!

インスタにアップされたので、はやく書こうと焦ったらこんなことに、、、射手座水星ボイドこわいわ!(と、星のせい(ゴメン。。))

焦らないで、ちゃんと確かめてから書こう(反省--;)