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歌集評:フラワーしげる『ビットとデシベル』

フラワーしげる『ビットとデシベル』(2015.7, 書肆侃侃房)

やっぱり破調


資格は別に要らなく 苦しみながらみんな行ってしまう(笑) 死と暴力 ア・ゴーゴー
「死と暴力 ア・ゴーゴー」

『ビットとデシベル』の破調の話はいろんな人もしてるし、優れた考察もたくさんあると思う。でもやっぱり破調の話をしますごめんなさい。この歌集には世界観に対する「鑑賞」の段階、が足りていないとは思います。そういった話のほうが需要があるとは思うのですが、それではやっぱり足りないんです。
例えば先に挙げた歌、かなり好きなんです。「ア・ゴーゴー(a go-go)」って「たくさん、存分に」って意味で、主にポップカルチャーに用いられる語らしい(知らなかった…)。歌全体が「死と暴力」という概念の説明になっていて、それらは「(行使に)資格は別に要ら」ず、そちらへ「みんな行ってしまう」。しかも「苦しみながら」。人間の背負った業、みたいなテーマが読めるんですけど、その「死と暴力」という概念を「ア・ゴーゴー」をいう極めて軽い語でふわっと肯定する。しかも(笑)。この語り口には自らも「みんな」の(人間の)一部であるという感覚が全くない。短歌において人間らしさを排除しつつ悪や軽薄を演出すること(しかも歌集全体で)は、たぶんなかなか難しい。
でもこれらの鑑賞は大半をテキストの意味のみに依っています。韻律というアプローチでこの歌を、この歌集の大半を評価する術を僕は持ちません。これは僕の韻律への、とりわけ破調への理解が十分じゃないからでしょう。この歌の鑑賞をさらに深めるために、まずは破調という概念について考察していこうと思います。

自由律はない

しばしば破調の同義語として扱われるのが「自由律」。でも言葉の由来を考えると、両者には違いがあるように思えます。たぶん、破調は「調を破る」から破調、自由律は「律が自由」だから自由律。「調」と「律」はいわゆる「定型」のことだと解釈すると、破調が破るための定型をもつのに対し、自由律はそもそも破る定型すらもたないことになります。つまりは「歌の背後に定型があるか否か」という違い。ところがそもそも、僕たちが歌を読むとき「これは自由律」「これは破調」みたいな指示がないかぎり、その歌は「短歌=定型をもつもの」という前提で読まれます(その歌がどれだけ定型から遠くても)。このことを考えればこの世に「破調短歌」はあっても「自由律短歌」は存在しない、ともいえるのではないでしょうか。考えられるとすれば「自由律短歌」「自由律歌集」みたいに歌に示して、前提を上塗りすることくらい? 千種創一は『羽と根』4号で短歌における定型の立ち位置を以下のように示しています。

定型とは散文という海原に浮かぶ一隻の空母である。定型とは短歌の帰るべき場所である。短歌は甚だしく定型から離れるときも遠出するときもあるが、いつかは帰らなければならず、そこから離れ続けていれば墜落する。
「定型空母論」

要するに短歌は短歌として提示される以上、定型を「なかったこと」にはできないわけです。同時に定型/破調は表裏一体であり、対概念的な存在であると考えられます。


リズムのこと

歌会等で歌を朗詠する際、どの歌も(全く違うテキストであるにもかかわらず、しかも読まれる環境にも影響を受けず)割と似通った読まれ方をします。これは短歌というラベルがテキストに定型という共有事項を与えるためです。ここでの読まれ方とは「リズム」のこと。定型は表面上文字数(音数)の制限として現れますが、同時にテキストに「特有のリズム=韻律」を付与します。では定型が対概念である破調へ移ったとき、歌の韻律はどのように変化するでしょうか。例えば、「資格は別に~」の歌は破調ですが、朗読するとして、この歌はどのような読まれ方ができるのか。ここからは「破調の韻律」をテーマに話を進めようと思います。


破調のグラデーションとベン図

破調の韻律の話をするために、その定義をもう少し具体的にしようと思います。破調が「定型を破る」ことなら、破調の定義とは「定型の定義」を含まないことです。定型の定義はもちろん「五・七・五・七・七」なんですけど、じゃあこれを少しでも逸脱した歌、例えば「五・八・五・七・七」の歌は定型のリズムを完全に失うか、というとそんなことはない。どこで歌が定型から剥がれ落ちるか、それは読者や歌の読まれる環境によりますが、ただ一つ確かなのは、短歌は「(完全な定型)―(不完全な定型or不完全な破調)―(完全な破調)」というグラデーションの上に成り立っているということです。印象の話はいったん置いておくとして、理論上は歌が「完全な破調」になるまで、定型の韻律要素がどこかに残っているはず。このことを踏まえると、破調の韻律とは定型の韻律をゆっくりと剥がれ、完全に乖離する過程のどこかに存在する、と考えられます。
この過程のことを考えるために、定型の定義をもう少し掘り下げることにしましょう。「五・七・五・七・七」という定型は、以下の三つの性質を含んでいます。


① 上の句/下の句に分かれる
② 初句/二句/三句/四句/結句に分かれる
③ ②の句に含まれる音数がそれぞれ五・七・五・七・七である


この①~③はこの順番に定義が狭く、定型として純粋になっていきます。言い換えれば③→②→①の順に歌は完全な定型から遠く、完全な破調に近くなっていくわけです。高校数学以来のベン図を使うと以下のように表せます。

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つまり破調の歌A(不完全な破調も含む)は完全な定型以外(A⊄③)と定義されます。では『ビットとデシベル』中の破調はこのなかのどのあたりに位置しているのか、破調が強くなるに従い韻律はどう変化していくのか、考えていきます。これでようやく歌の話ができる……


句の境界線

きみが生まれた町の隣の駅の不動産屋の看板の裏に愛の印を書いておいた 見てくれ
「神秘の社員食堂」

例えば上の歌は、ベン図のどこに位置するでしょうか。
まず③ではなさそうです。この歌全体の音数が31音を超えていますし。それでは一つ枠を広げた②はどうでしょう(厳密には領域③を除く②)。この問題を考えるためには短歌における「句」の概念について考える必要があります。言うまでもなく、短歌は初句~結句の5つのパーツに分けられる、わけですが、大事なのは各句の境界線をどこに引くかということ。普段歌を読むときは、その句が5音や7音に達したら次の句へ移行する、みたいな読み方をしているような気がします。ただし先述の「不完全な定型/破調」の通り、音数のみが定型を形作るわけではないというのもまた事実でしょう。句分けを決定する要素すべてを挙げることもできなくはなさそうですが、今回はいくつかをピックアップするに留めます。また、それらの要素が常に句分けを導くわけでも、またその要素の性質が句分けのみであるわけでもない、ということは言及しておきます。


ア. 字空け(句点、読点を含む)による句切れ
視覚認知の側面が大きい現代短歌において、字空け等の視覚的空白は句の境界線を引くうえで有効な手段と言えるでしょう。ただしこれらは同時に句割れ(一句内の分割)も導き得る。これは字空けが「韻律的な切れ目」と「内容的な切れ目」を区別なく導くからだと考えられます。


イ.文法による句切れ
終止形や名詞によって歌が区切れ、次の句へと移行される場合もあるでしょう。ただし短詩は散文に比べて文法や語順が曖昧になりやすいので、(助詞抜きとかもありますし)、文法のみでの判断が難しい場合もあります。そうした場合はその歌の意味内容と併せて判断されている印象。


ウ. 意味内容的な句切れ

どうしているのだ、甲羅は白く、複眼は暗く、蹄は割れて、燃やせば切ないものたちよ
「江戸時代」

おそらくこの歌は句点の位置に句の境界線があるのでしょう。でもなんとなく、句点がなくても句切れそうな気がします。それは語用的に読点の前後でフレーズが変化した感じがあるからです。このように歌の意味内容的な変化により句切れを作ることができそう。ただしこれは相当に個人の感覚によりけりな部分が大きいので、正直決定因としては弱い気がします。
強調しておきたいのは、以上のア~ウはあくまで副次的な要因であり、実際の読みで優先されるのはあくまで音数です。これは定型の定義が音数によって作られている以上は避けようがないと思うのですが、『ビットとデシベル』中の歌は過度な音数の過不足によって音数を拒否する意思を提示している。そうすることでこれらの副次的な作用が力を持っていると考えられます。また音数による句分けには以下のような応用も考えられます。


エ. ほかの句による句切れ

ずっと片手でしていたことをこれからは両手ですることにした夏のはじまる日
「世界のはじまり」

この歌、「していたことを」「これからは」が7音と5音で、それぞれ二句三句として読めます。となると相対的に「ずっと片手で」を初句として読むことができる。また「両手ですることにした夏のはじまる日」は下の句ということになり、先述の「意味内容的な句切れ」を考えると、「両手ですることにした」「夏のはじまる日」と考えられます。まとめると歌は「ずっと片手で/していたことを/これからは/両手ですることにした/夏のはじまる日」という句切れが自然だということになります。少なくとも僕といういち読者はこの歌をそのような句切れで読みました。その歌その歌で読者個々人がもっとも自然だと思う読み方を採択すること。これは韻律だけでなく「読み」という営み全体に言えることです。
話が長くなりましたが、「きみが生まれた~」の歌の句切れを考えましょう(あくまで僕の思う最も「自然な」句切れですが)。この歌は「愛の印」より前の部分はそれを書かれた場所の説明になっています。そしてそれらは空間の質を考えると「きみが生まれた町」「隣の駅の不動産屋」「看板の裏」という分け方が可能です 。また、「見てくれ」の前には字空けがあり、かつフレーズとしても独立しているように思えます。以上のことを加味すると、この歌は
「きみが生まれた町の/隣の駅の不動産屋の/看板の裏に/愛の印を書いておいた/ 見てくれ」と読めます。この句分けが僕の読みです(補足①)。


フラワーしげるの歌の多くは②の領域に含まれています。というか、②の領域なら読める、というか。歌全体を、定型の主要因である「音数」そして僕が上に挙げた副次的な要因によって5分割できる、ということです。
しかし、これは『ビットとデシベル』の韻律的な分析、という命題の答えにはなっていません。これらが「完璧な定型」からは逸脱している以上、定型の韻律をそのまま歌に適用するわけにはいかないからです。ここからは②の領域にある歌がどのような韻律を持ちうるのかについて考えていこうと思います。


短歌二拍子説

なんどか表明したことがあるんですけど、僕は(少なくとも現時点では)短歌四拍子説の支持者です。短歌四拍子説とは、定型の各句は音符と休符の組み合わせによる四拍子から成っており、読まれ方は時間的に等分である、という説。正確なルーツは知らないのですが、少なくとも1977年には別宮貞徳『日本語のリズム』により提示されていたようです。せっかくなのでこの短歌四拍子説を、楽譜を使って表してみます。

ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは
/在原業平

は楽譜にすると以下のようになります。

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定型上、5音の句には3つの休符、7音の句には1つの休符がとられるわけですが、ここには代わりに音符を挿入したりもできます。したがって

急に君はちくわで世界をのぞいてる 僕は近くに見えていますか
/千種創一

は以下のように読むことが多いのではないでしょうか。

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「ちくわで世界を」(8音)の2句が、休符のぶんの音数を使って読まれたりしています 。八音の字余りは本来の句間でとられる間に音が入るだけなので、そこまで違和感なく読める気がする(補足②)。また「急に」「君は」(3音×2)の初句が三連符的に読まれたりもするんですけど、これは応用的な読まれ方だと思っているので、今回の評論では割愛します。
ここで注目したいのは、拍子、という概念は拍を「重ねる」わけではなく「分割する/統合する」という解釈が可能だということです。今回は「2音節=四分音符1拍」という決まりで楽譜化を行っていますが、これは別に「1音節=八分音符1拍」の八分の八拍子と捉えることもできますし、「1子音or1母音=十六分音符1拍」の十六分の十六拍子と捉えることもできる。四拍子説は「各句に等分的な時間が流れている」という仮定により成り立っている説なので、四拍子である絶対的な根拠はないわけです(音楽と違い、拍子を制作の出発点にしているわけでもないので)。四拍子説が採択されている理由に関する個人的な仮説は補足に回すしますが(補足③)、要するに定型には「句ひとつ=一小節」という等分な幅を拍によって「分割する」という拡大解釈が可能で、このことが句の韻律、ひいては破調の韻律を考えるうえで有効であると考えています。
完全定型は「2音節=四分音符一拍」「句ひとつ=一小節⇒一首=五小節」というルールにより読者の読むリズムを規定しますが、『ビットとデシベル』中では後者を出発点にすることで「一拍に含まれる音節を操作する」という方法が実践されています。例えば以下の歌

おまえはあたしを送るだけでいいんだよ終電がないから感謝しろなんてぐちゃぐちゃ言うんじゃねえよとかたぶん思われてる
「死と暴力 ア・ゴーゴー」


テキストのみから歌の解釈をすると、「『終電がないからおまえはあたしを送る。それだけでいいんだよ。感謝しろとかぐちゃぐちゃ言うな』とか思われてるんだろうなあ、俺」みたいな感じでしょうか(「から」の所在が微妙なところではありますが、「感謝しろ」が発話と読め、「終電がないから感謝しろ」という発話に違和感があるという点で「終電がないから」は「送ること」の理由付けとして読みました)。このことを踏まえて内容/構造から句分けを行うと(音数的な分け方は明らかに厳しいので)、

おまえはあたしを/送るだけでいいんだよ/終電がないから/感謝しろなんてぐちゃぐちゃ言うんじゃねえよ/とかたぶん思われてる

と読めます(あくまで僕は)。さてこの歌は、各句=小節をどのように分割しているでしょうか。全音符を基本として、二拍子、四拍子、八拍子……と分割ができるわけです(三拍子などの奇数の分割も不可能ではないのかもしれませんが、定型の基本ルールである四拍子とは根本から異なってしまうので、今回は割愛します)。音数という尺度が成り立たない以上、分割の根拠となるのは「フレーズのまとまり」というひどく主観的なものになります。まずは二拍子(各句を二分割)にしてみると、

おまえは・あたしを/送るだけで・いいんだよ/終電が・ないから/感謝しろなんて・ぐちゃぐちゃ言うんじゃねえよ/とかたぶん・思われてる

なんかできてる感じがするのは僕だけでしょうか。ちなみにこの「フレーズのまとまり」という分け方の基本には「文節」という文法規則があります(あくまで「基本」ですが)。じゃあこれ以上に分割できるかというとちょっと厳しそうです。「自立語/付属語」という単語レベルでの分け方も可能な気はしますが、各パーツの音数の差が生まれすぎると「韻律」という概念で語る意味がなくなるので。この分け方で歌を楽譜化してみると以下のようになります。

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このように『ビットとデシベル』中の歌は二拍子として解釈できるのではないか、というのが僕の結論です。長くなってしまったのでここで破調短歌の韻律を分析する過程を以下にまとめます。

1. 歌を5つの句=五小節に分割(このときの分割の基準は音数が優先されるが、『ビットとデシベル』中の過度な破調がそれを拒否する場合が多く、その際「内容」「文法」など副次的な要因が作用する)
2. 各小節内の拍を分割(分割の基準は1と同じ)

このプロセスを踏むことで、破調短歌にも韻律を付与することができます。もっと正確に言うなら、このプロセスが通じるならその歌はベン図中の②に存在し、それに見合った韻律が残っている、ということです。そして『ビットとデシベル』中の歌の多くはこのプロセスで韻律を付与することができます。ここまでは字余りの歌についてのみ論じてきましたが、字足らずの歌にも同じことが言えます。例えば以下の歌

もう一度言うがおれは海の男ではない
「江戸時代」

もう・一度/言う・が/おれ・は/海の男・では/ない

みたいに分ける(「海の男」を一単語とするという読み)と、二拍子的に読めます(結句の二拍目は休符)。
ここで強調しておきたいのは、各拍に含まれる音数は歌の中で一定でなくてもよい、ということです。あくまで「内容/構造」という尺度で拍を分割しているに過ぎず、そこに音数という概念は関わってこないからです。逆に言えば、一拍という決まった幅の中で音数が伸び縮みする、このことが破調における韻律の評価ポイントになるのではないかと言えます(詳しくは後述)。


なんでもあり、でもない

一拍における音数を増やすことで定型を拡張する。いやいやそんなん言ったら何でもありになっちゃうじゃん、と思われる読者も多いことと思います。しかしこの技法は決して万能ではありません。
まず前提としなければならないのは、句分けの境界線は歌に引かれているのではなく、あくまで読者が引くものだということ。読者が定型で読むことをギブアップした瞬間、その歌は韻律を失ったフリーリズムなものになります。読者の定型に従う意思と、作者の定型を手放さない技法の双方があって、初めて韻律は成り立つのです。ここから、定型拡張の技法のもつ不完全な部分を思いつく限り列挙します。
第一に、各句、拍に等分な時間が流れているということは、歌を読むスピード自体は各句で一定であるということです。初句に著しい字余りがあると読みのスピードは定型に比べてゆっくりとなります。そしてそのあとの句に字足らずがあった場合、読者はその密度の差についていくことができず、読みを妨げられます。
第二に、短歌においては音符と休符の転換を意図的に行うことはできません。もともと楽譜から歌が作られるわけでもないですし、読者は「句中で音が続いているかぎり音符」「一度音が切れたらのこりは休符」という認識しかできないわけです。言い換えると、定型の基本(二音節=四分音符一拍)における一句の限界(=八音)を超える音数が一句に含まれる場合、休符は無条件に音符に塗りつぶされるということです。つまり、字余りの歌においては基本的に休符が認識されず、字足らずの歌に関しては次の音符までの休符の長さがわからない(「もう一度~」と歌もその例)、という状況がおこります。
第三に、この技法は「句をフレーズによって句切る」という前提に成り立っているので、「フレーズを句と句の間で繋ぐ」技法である句跨りや「一つの句の中でフレーズを分割する」技法である句割れとは共存が難しい。難しいというのは、相反する技法であるがゆえにこれらが歌集の中で共存すると、互いの韻律の決定力が弱まる、みたいな感じでしょうか。例えば

殴られたのかと思って見ているとそうではなく虫でもはらったのか
「新しい心のテラス」

の上の句はこの一首単体で見ると「殴られた/のかと思って/見ていると」という句跨りによって読め、そのことによる韻律としての美点もあるのでしょう。ところがこの歌集の一部としてこの歌を読むと「殴られたのかと/思って見ていると/そうではなく」みたいな読み方も考えられ、かつどちらを採択すべきかの決定力に欠けます(僕個人は下の句で急激に文字が足りなくなることを踏まえて、句跨りの読み方を採用しました)。このような歌集内の他の歌との関係も韻律の決定因になりうると思っていて、詳しくは次の章で話します。

やるなら徹底的に

再三書いているように、短歌作品に読み方の説明書はありません。読者は各々の韻律感覚に基づいて各々感覚で歌を読むしかないわけです(逆に言えば読み方の正解もないわけですが)。明文化されているルールとは「完全定型」のそれのみで、大げさに言えばそこから一歩でも離れれば短歌読者は韻律においてルールのない空中を漂うこととなります。そのなかを読者は「歌をより良いものとして感受するために」最善の方法を模索していくわけです。ゆえに読者は、作歌時に作者の込めた韻律をそのまま再生するほど都合のいい存在ではありません。それは連作や歌集等、歌の数が増えればなおさらのこと。定型および韻律の強度はその作者の韻律の「徹底度」に左右されます。前の章で述べたように、「フレーズによる句切り」と「句跨り」のような相反する技法を用いられると、片方の読み筋にはたどり着けない、あるいはたどり着けても信頼度が下がります。その作者への韻律への徹底度が「韻律」という実体のない評価軸を形作るのです。ここで強調しておきたいのはこの「徹底度」は必ずしも「完全定型の遵守」を意味するわけではないということです。そりゃ完全定型に近いほうが共有された韻律のルールに近づくので歌群中の韻律のブレは少なくなりますが、破調でもその読み方のルールを徹底していれば韻律のブレを減らすことも、そのルールによってほかの歌の韻律を補強することも可能なはず(僕が今回論じた二拍子的な韻律も同様)。吉岡太朗による連作「不自由律」が好例です (補足④)。ちなみにこの韻律の徹底度は歌人の「文体」という概念の要素になっていると考えています。「文体」についてもいつかちゃんと考えたい。
と、このように書くと「『ビットとデシベル』は破調だがその韻律におけるルールが徹底されているのだ」みたいな論旨へと続きそうですが、僕が主張したいのはその逆。韻律への徹底度がそんなに高いわけでもないから、この歌集は苦労するのです。

エンサイクロペディアエンサイクロペディア母の裸体をやっと見つけたぞ
「風の都合」

この歌、ここまで論じてきた『ビットとデシベル』中の破調(の多数派)に基づけばふたつの「エンサイクロペディア」の間には句切れを読みます。しかしそのあとの韻律を考慮すると「エンサイクロ/ペディアエンサイ/クロペディア」という句跨りで読んだほうがおもしろい気もする。感覚としては笹井宏之の「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい」の上句のようなおもしろさです。しかも結句が「やっとみつけたぞ」となることで完全定型のルートへも戻させてくれない。僕の名誉のために言っておきますが、先述の二拍子的な読み方はこの歌集の大部分をカバーできるし、フリーリズム的な読み方よりも韻律面のアプローチから作品をよりよいものとして鑑賞できます(と、少なくとも僕は思っています)。ただ、この歌のような「例外」が歌集の中に一定数存在する。要するに『ビットとデシベル』は「定型への挑戦」であるとか「破調モデルの提示」をメインに据えた歌集ではないということです。この歌集のあとがきには以下のようなことが記されています。

名前同様、ここに収められている短歌も少し風変わりに映るだろうか。あるいは決められた語数の大幅な逸脱が目立ったり、奇を衒っていたり、露悪的だったり、むやみに性的だったりするように見えるかもしれない。しかし仮にそうだとしても、その風変りさは何らかの野心から来たものではない。これは伝統からきている。なぜなら短歌の歴史はルールの遵守によって築かれてきたわけではなく、ルールの拡大解釈によって変移してきたからである。

そもそも、「短歌における既成概念の破壊」といった思想をメインに据えられた歌集というのは歴史的に見てもそんなに少ないはずで、その多くは「ポエジーの創出」「自己の表現」といった個人に還元される思想に基づいていると思います。『ビットとデシベル』の破調は短歌に対する「野心」ではなく、あくまでそのポエジーを創出する要因の一つに過ぎないのではと考えられるのです。「破調」は定型を破ることなので、そこには何かしらの思想があるように思ってしまいます。だからこそその文体のズレ(不徹底)に読者は敏感になる。でも本来歌集という歌の集団において韻律の完全な徹底はほぼ存在せず、『ビットとデシベル』もまたその例外ではないように思えます(もちろん韻律への不徹底が歌集の瑕となる事実は揺るぎません。『ビットとデシベル』にはそういう意味で韻律的な瑕を抱えているのですが、その大きさは他の歌集とそんなに変わらない、気がしています)。あくまで「ルールを拡大解釈」した上で、多くの歌人と同じように歌集を展開しているのであり、「ルールの創出」を目的にしているわけではない、とも言えるでしょうか。


ようやくゴール

ここまで書いて、話題は「『ビットとデシベル』の韻律的評価」という冒頭の話題に戻ります。

資格は別に要らなく 苦しみながらみんな行ってしまう(笑) 死と暴力 ア・ゴーゴー
「死と暴力 ア・ゴーゴー」

この歌、僕は「資格は別に要らなく/ 苦しみながらみんな/行ってしまう/(笑)/ 死と暴力 ア・ゴーゴー」と読みました。四句目は「かっこわら」と読む感じですね。こう読むと「(笑)」の前に上の句と下の句の境目ができ、語り手の印象が急に軽薄になることで、歌に不穏な空気が流れます。もちろんこの読み方に僕は根拠を持っていますが、唯一の正解だとは思っていません。ただ多くの場合、歌を完全破調=フリーリズム的に読むよりも、歌は韻律という評価点を得ることができると思うのです。それが連作や歌集という立場で読まれるならなおさら。
また歌集という単位で考えるなら(少しありふれた結論になりますが)『ビットとデシベル』中の破調は定型が内包する叙情や湿っぽさの拒絶になっていると思います。特に拍に音を詰め込む技法は一首の中に情報過多を引き起こし、そのぶん余白を奪う。叙情的な「人間味」や「個性」が奪われることで翻って人間のもつ「根源的な暴力」を描くことに成功しているのではないかと考えます。


誰がための定型か

最後に、この歌集評を書き終わるまでの過程で考えた、韻律に関する私見を話して、この長すぎる歌集評を終わろうと思います。
ここまで読んで、僕がこの歌集に韻律の規則を見出そうとする営みをこじつけだと思った方も多いでしょう。ここまで書いたことは紛れもなく僕の韻律感覚なんですけど、それを証明する手立てはないので主張しておくだけにしておきます。僕は本当にそう読んだんです。
ここまで読んで考えたのは、僕はちょっと定型に対して従属的すぎないかな、ということ。千種創一は先ほど挙げた「定型空母論」においてフラワーしげるの歌を取り上げ以下のように述べています。

フラワーしげるが短歌を作り続けられるかという問いはあってしかるべきだろう。(中略)定型的要素を含む歌を作者が短歌だと主張しつつ作り続けても、いずれ読者はそれを短歌だと感じられなくなっていくだろう
「定型空母論」

「読者が短歌だと感じられなくなる」。そう。歌が韻律において正解を持たない以上、読者はいつでも定型を放棄することができます。定型のリズムを全く有さない、フリーリズム的なものとして歌を読むことも可能です。むしろ頑張って定型に引き付けようとするこの作用は、作品にとって暴力として働きうるのかもしれない。僕が感受できていないだけで、フリーリズム的に処理したほうが作品にとってはプラスになるかもしれない。
定型の力は誰のために使われるべきでしょうか。作者? 作品? 読者? 答えは読者ひとりひとりが、ひとりひとりの配分で持ちうるものでしょう。
それでも、僕たちが読んでいるのはどこまでいっても短歌です。この『ビットとデシベル』が歌集として提示される以上、自身の感じる限界まで定型にしがみつく「権利」が、読者にはあります(義務ではないですが)。いち読者として、この権利を最後まで行使していきたいものです。
(2020/03/20)

引用:フラワーしげる『ビットとデシベル』(2015.7, 書肆侃侃房)
千種創一「定型空母論」『羽と根』4号(2016.5)
『小倉百人一首』
千種創一『砂丘律』(2015.12, 青磁社)
吉岡太朗『世界樹の素描』(2019.2, 書肆侃侃房)


補足

①「隣の駅の」あたりの解釈は分かれるところです(「駅」には「その駅がある町」みたいな解釈もできるので)。ただ僕はこの不動産屋を「地方のちょい大きな駅の近くによくある不動産屋」のイメージで読んでるので、「駅の」はあくまで不動産屋と空間的には近いと考えています


②4句目の八分休符が先頭に来ているのは、楽譜にする過程で、そういえばこんな風に読んでる気がする、と思ったからです。たぶん「近くに」の「ち」音が表拍になったほうがイントネーション的に読みやすいから。なんとなくですけどこういうイントネーションによる表拍/裏拍のチェンジくらいまでは、多くの読者が普段の読みでも自然とやっている気がします。イントネーションには地域差があるので、韻律にも地域差があるのでしょうか。いつか考えてみたい

③基本的に拍が細かいほうが歌をリズミカルにできるでしょう。しかし日本語の音節と定型の音数を考えると、拍として読めるのは「一音節=一拍」の八分の八拍子までが限界のようです。八拍子で読んでしまうと本当の韻律が単調になります。「二音節=1拍」の四分の四拍子で読むと歌に「表拍/裏拍」の概念ができ、この概念が生まれるだけで単語にイントネーションが生まれる。このほうが作品にとって都合がよいのではないでしょうか。」もともと音声文化ですし。あとは単純にスピードの問題かなあと思います。

夕日ふんだり夕日けったりする河原にておひらきになんのを待っとった
「不自由律」


のように連作中の歌がすべて「七・七・七・七・七」で統一されている連作

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