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「夏休みの思い出」を聞くのはもうやめよう

いくつかの新聞やテレビのニュース番組で、夏休み明けの教室模様が報道された。
そこでは相変わらず、「夏休みの思い出」を尋ね、そしてそれに答えている子供の姿が報じられていた。

「またか」、「まだなのか」と、落胆を禁じ得ない。

以前にも、この「リフレク帳」で述べた。
「夏休みの思い出」を問われる子供の気持ちを、どうして教師は想像できないのだろうか。
語りたくない、語れない子供のいることが、なぜわからないのだろうか。
教室には、様々な家庭環境で育っている子供がいるという事実を教師はどのように受け止めているのだろうか。
これは、各家庭の社会経済的背景(SES)のみを指しているのではない。
例えば保護者の職業によっては、「世の中」と同時期に「夏休み」が取れない場合があることぐらい常識ではないか。

さらに、深刻な人間関係の問題を抱えた家庭の子供であれば、「楽しかった」夏休みの思い出など語りたくもないであろうし、聞くことすら拒みたいだろう。

教師にとっては、あいさつ程度の軽いノリなのかもしれない。
全員の子供ではなく、数人が答えることで、「楽しかった夏休みが終わったね。終わってしまったね。」という和やかな雰囲気を教室内に漂わせたいだけなのかもしれない。
だが、それが、無責任であり、鈍感なのだ。

もし、「夏休みを振り返る」ことによって、夏休み明けからの学校や家庭生活の目標を設定させたい、あるいは、冬休みや次年度の夏休みに活かさせたいというのであれば、きちんと目標を設定し手だてを用意した「授業」を組めばいいのである。

教師は、思いつきや慣習程度の感覚で、教室で言葉を発するべきではない。
教師にとってはポロッと出た一言であっても、子供にとっては重い意味をもつ場合があることぐらい、誰でもわかることだろう。

何気なく、「夏休みにはどんな楽しいことがありましたか」などと問うているようでは、個別最適な教育はもちろんのこと、オルタナティブな教育を発想できるはずがない。

さらに言えば、「夏休み明けの教室では、先生が『夏休みの思い出』を尋ねていました」などと報道するマスコミの意識の低さについても、問われるべきであろう。