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ため池

稲作中心でくらす日本の農村では、とにかく水田に安定して水を供給することが大事だ。豊かな雨が降り大きな川が流れているなら水を得ることは比較的簡単だが、雨が少なくて大きな川もないエリアでは、水を得るために相当な工夫とたいへんな労力をかけてきた。それがため池である。

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四国では、特に香川県にため池が多い。若かりし頃の僕は釣りに熱中しており、ブラックバスを求めて徳島県に隣接する香川県のため池を渉猟していたのであった。釣りという趣味はたいへん利己的なものだ。よい釣り場を得ることが釣果に直結している。誰も知らない(正確には、誰かが過去にブラックバスを放流して忘れ去られて放置された)池を見つけるのは素晴らしいことである。ルアーを見たことのない純真な魚たちは我先にとかぶりつき、僕を喜ばせるのだ。

しかし元来ため池は釣り人の便宜のために作られてはいない。田んぼに送るための水を供給するのが本来の目的だから当たり前だ。だから釣り人は、ときには崖を降り、ときには藪を切り開いてなんとか水辺に出なくてはならない。僕のアウトドアでのサバイバルスキルは、このような実利的な場で大いに訓練されたといえよう。

釣り場を独り占めするため僕は、安く小さなゴムボートを入手した。お金があればちゃんとしたボートを買うのだが、ただ貧乏で釣り好きな若者だった僕は、これを軽自動車に積み込んでどこへでも出かけたものである。

船があると釣りは一変する。魚の潜んでいそうなところにそっと近づいていき、静かにルアーを投げてそろりそろりと巻き上げると、魚はおもしろいように釣れる。誰もボートなど使わない小さな池ではもう無敵である。

こうして僕は、魚という生きものが何を考え、どの時間帯にどこにいてどんな獲物を狙っているのか想像を膨らませることができた。その仮説を試すためルアーを投げる。これを繰り返すことは、さながら科学の実験だった。観察と実験を繰り返すことで僕の中には魚についてのデータが蓄積され、それは自分なりの法則へと収れんしていったのである。まさに、人間が生きるということは研究そのものなのである。

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魚についての知見を増し加えた一方で、僕は水辺の環境にも興味を持つようになった。ため池は、本来農業のために作られた実利的な物体ではあるが、その副産物として、多くの水辺の生きものをはぐくんでいる。フナ・メダカ・アメリカザリガニをはじめとして、これらを狙うシラサギ・アオサギの類、そして季節によってはカモなども飛来する。山あいのため池にはタヌキなどの大型哺乳類も姿を見せる。とても面白い場所なのだ。

良い釣り人になるためには、池の環境をしっかり理解する必要があった。水深や底の地形、流れる水の方向やスピード、水温や透明度。多くの物理的条件が魚の居場所や立ち寄りポイントを規定するので、それを把握することが大事なのである。夏場でも水がひんやりとして透明度が高い場所、そして目を凝らすと水底の砂がぽこぽこと踊っている。湧水だ。よくルアーが引っかかる場所がある。よく見ると誰かが捨てた自転車が転がっている。

このように池の環境は多様であり、魚たちはその環境で生き抜くためのベストを尽くしている。そして彼らを釣り上げるため、僕もベストを尽くしている。よく考えるとシュールな状況だが、魚も僕も必死である。もし見かけたらそっとしておいてほしい。



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