伊勢でのことを / 三好愛

伊勢うどんと無人島

 もしも、讃岐うどんか伊勢うどんどっちかと無人島に行かなければならないことになったとして、私がどっちかを選べるなら、伊勢うどんかなあ、と思います。しっかりとしたコシがある讃岐うどんは長い時間一緒にいるのはなかなか、しんどそう。

 物事がうまく進まなくなったとき、流れを断ち切りたいと思ってよく風呂に入ります。体温と同じくらいの湯に浸かり、それはとてもダラダラと浸かり、湯と自分が同化するくらいになったころ、身を引き上げます。当たり前ですけど風呂前に放置した物事は特に好転しておらず、ただ、自堕落に湯に浸かりつづけたおかげで、どうにかしたい、という気概よりも、まあいっかという適当なあきらめが身につきます。

 伊勢うどんにはちょっと私のそれに似たものを感じる、というか、店によっては1時間以上茹でられることもあるという少し特殊なうどんとしての、モチベーションはいったいどんなものなのだろう、と思います。もういいよ、というくらい長いあいだ熱湯で茹でられて、やわやわになった自分の身体を器の中の濃いタレに横たえ、箸でつかまれては、もとの姿を保ったまますすられることもままならず、ちぎられ口に運ばれる。そんなに長く茹でられていたら、能動的にうどんとして生きることはどうでもよくなってしまうのではないかと察します。

 仮に伊勢うどんと無人島に行ったとして、初日、だんだん日も暮れてきて、そろそろ暖をとらねばと、焚き火を起こす術などさぐってみたりするのでしょうが、とりあえず伊勢うどんがポケットにたまたま入れていたライターで、そのへんにあった木くずとかに火をつけてみたりするも、要領の悪い私たちは火種を長続きさせることは出来ず、途方にくれてしまう気がします。
 もしも相手が讃岐うどんだったら、うどんとして真っ当にやる気十分な彼は、you tubeで見た情報やキャンプ好きの友達なんかから聞いた知識を、きちんと覚えていたりして、りっぱな火種をつくったうえに、それっぽく組んだ小枝の束を上手に利用し、焚き火をつくってくれたりしそうです。私は口先では、大変ありがたく思います、などと讃岐うどんに伝えながらも、そんな彼にたよりきりで、無人島での日々を懸命に生き延びてゆこうと努力するくらいであれば、伊勢うどんと一緒に、早々になにかをあきらめながらやわやわと死んでゆくほうが気が楽だなあ、と思うのです。

伊勢市駅前にある「まめや」の伊勢うどん、びっくりするほどふわふわでした。伊勢に住む人は風邪ひいたときとかに食べるそうですね。消化が良いから。


ポータブル神様

 伊勢神宮に来たのはこれが初めてではなかったのですが、何度来ても気持ちの良いところだな、ということといっしょに、なんとなく、ここの神様は「やっぱりここにいる」んだなあ、と思ってしまいました。
式年遷宮で20年ごとに新しい社殿にうつったりはするけれど、基本的に神様は「ここ」にいて、みんな、わたしも、江戸時代の人も、旅行ツアーのおばちゃんも、みんなここまで、それぞれの手段で、神様に会いにきます。

 そんなことに違和感を覚えた原因というのは、私が昔プロテスタントのキリスト教の中高一貫校に通っていて、そこで自分なりに感じとった自分と神様との関係性にもとづくものなのですが、中学生と高校生のとき、私が通っていた学校では、特に校則とされるものがなく、あなたたちには聖書がある、聖書で自分をおさめなさい、ということを、ずーっと言われていました。毎朝、1時間目がはじまる前に15分間行われる礼拝で、ちょっとずつ聖書を読むことで、イエスキリストが常にそばにいることを自覚し、自分で自分を律してゆく、というようなことだったわけなんですが、物理的によく覚えているのは「聖書バッグ」のことです。

 それは聖書と讃美歌がすっぽり入る(それ以外はなにも入らない)薄い布でできたバッグで、週に何回か、教室以外の場所、校舎の入口入ってすぐの大きな講堂などで、礼拝があるとき、私たちは聖書バッグを持って移動しました。礼拝では、聖書を開き、賛美歌を歌うので、聖書バッグを持たずして礼拝を受けることはあり得なくて、朝の礼拝の時間6年間、私たちは常に聖書バッグを持ち歩いていたのです。1時間目に理科室で授業があるときは、理科の教科書と聖書バッグを抱え、体育の授業があるときは、体操着で聖書バッグを抱え、移動し、着席し、パイプオルガンの荘厳な音に合わせて、アーメンと唱えました。偶像崇拝だったので、キリストの像とかマリアの像とか、祈る対象には具体的なイメージがありません。聖書が神様そのものみたいな感じでした。その神様をなにがあろうとバッグにいれて持ち歩いていたわけで、なんか、だから私は、神様はポータブルなのだ、というイメージが拭えなくなりました。

 校則のかわりの立ち位置に聖書があるくらいですから、聖書バッグは、上履き、体操着くらいの存在感で常に重要ポジションにいました。
礼拝を教室でやるときには、登校して、教室に行って、教室のロッカーから聖書バッグを取り出して席につけばいいのですが、礼拝が講堂であるときは、登校して、教室に行って、聖書バッグを教室のロッカーから取り出して、また学校の入口近くの講堂に行かなければならないのが非常に難儀です。学年があがるにつれ、生活がだらけ、礼拝がはじまるギリギリにしか登校できなくなっていた私と友達たちのあいだでは、教室に聖書バッグを取りにいかなければいけないタイムロスが、悩みの種でした。
 
 しかし、あるとき気づくのです。
講堂で礼拝がある日は、前日の下校時、靴箱に聖書バッグを入れておけばいいのだ。そうすれば、朝登校したら靴を履き替えると同時に聖書バッグをピックアップすることができます。私たちはいつしか、講堂礼拝の前日の下校時には毎回、脱いだ上履きと一緒に聖書バッグを靴箱につっこむようになりました。 

 思い出すたび胸が痛みますが、聖書で自らをおさめ、校則にしばられていなかった私たちは、服装が制服でなく、私服でした。夏場はたいていサンダルです。サンダルで登校したあとは、きちんと靴下を履く、という芸当を身につけているものなどほとんどおらず、みな裸足のまま上履きを履いて校内を過ごしていました。なので、夏真っ盛りの時期、靴箱周辺に立ちこめるにおいは、くさい、なんてものではなく、一種のあやかしですらあるような、異様な迫力がありました。そんな空間に、躊躇もせず神様がわりの聖書をつっこんでいたことというのは、今振り返ってもやめたほうがよかったんじゃないか、と思います。キリストはくさくなかっただろうか。紀元が始まったくらいからいろんな人を救ったりだとか誰かに裏切られたりだとかあんなに大変そうだったのに、現代にいたっても、女子中高生に毎日ぶんぶんと振り回されながら持ち運ばれ、靴箱につっこまれ、「あなたたちにはイエスキリストがついています」などと、勝手にみなの希望として持ち出され、ずいぶんめんどくさかったんじゃなかろうか。信仰自体にはあまり馴染めませんでしたが、神様という存在について考えるきっかけはもらえた中高時代でした。

 今回の滞在では、夫と、早朝の伊勢神宮に行って神聖な空気を感じよう!と意気込んでいたのですが、すっかり寝坊して、普通の時間に行きました。かろうじて平日を選んだものの、いろんなお客さん、特におばちゃんの団体客は数多くいて、神聖な空気どころではなかったので、寝坊した自分たちを恨んだりもしましたが、神宮の中心にたどりつくまでのあいだに、そんな思いもわりとどうでもよくなりました。その道のりでは、五十鈴川のすぐそばまで行けるところがあったりして水面を見ながらぼーっとしたりだとか、そういう時間を勝手に過ごすことができました。神宮内の人たちが朝の行事を行っているのを立ち止まって遠くから見ていたりもできます。そうして、思い思いの行動をとりながら自分たちがお参りする場所に着く時間を調節することができたのです。毎日神様がわりの聖書バッグを常に持ち運び、決まった時間に祈りをささげていたわたしからすれば、それは神様と接するときの非常に新しい関係性でした。自分の心情を整えながら神様との距離を縮めていく、というのはとてもおだやかなやり方のように思いました。

 江戸時代のお伊勢参りのことなんかを、日本史の授業で習ったときはなぜわざわざそんな遠くから神様を拝みに行くのだろう、自分のそばに神様がいることにすればいいじゃない、などと不思議に思ったものでしたが、伊勢神宮に実際来てみると、そんな江戸時代の人たちの気持ちもちょっとわかります。別に、神様を拝みにいくことだけがお参りじゃなかったんだ。

 おかげ横丁をうろうろしたあとの帰り道、信号がなかったので、駐車場近くの地下道みたいなところを通って道の反対側に渡ってみました。ただの地下道かと思ったら、通路の両側の壁に、江戸時代のお伊勢参りの様子が仔細に描かれた屏風絵の再現が展示されています。伊勢神宮への道のりの中で、おにぎりを楽しそうに食べたり、大道芸のようなものを見学する人たちがいたり、ゆったり楽しげに、お伊勢さんへ向かう人たちがたくさんたくさん描かれていました。先ほどおかげ横丁で、赤福を食べ、豚捨のメンチカツを食べ、角屋麦酒を飲んで、浮かれていた私と夫も、その絵の中にいてもなんの問題もなさそうでした。

 神様なんていう目に見えない存在について、どういう思いを抱くかなど、人それぞれで、育った環境やその人の性格によるのでしょうし、私自身キリスト教は通っていた学校で少し親しんだ程度で、日本の神様についてなんて、伊勢に来てちょっと考えてみたくらいですが、イエスキリストと天照大御神、神様という言葉でひとくくりにしてみても、なんか全然違うんだなあ、とあらためて感慨深く思います。
 ただひとつだけ、共通する感覚があったのは、伊勢神宮でニ礼二拍手、目をつむって手をあわせるとき、礼拝中にパイプオルガンの音に合わせて黙祷するとき、のことです。あの、大勢の中にいるのに急に自分ひとりになって何を思えば良いのか所在ない感じ、神様を普段からずっと信じてるわけではないのに、目をつむっているときばかりは神様の存在を思い浮かべてしまう都合の良い感じ、が絶妙に組み合わさって、なにを願うか願わないかぼんやりしてるうちに終わってしまうあの時間は、いつどこでだれに祈ってても変わらないなあ、と思ったのでした。

伊勢は感染症対策が徹底しており、豚捨でメンチカツを注文するときに、店員さんとものすごいソーシャルディスタンスがとられていて、ずいぶん遠くから「メンチカツ、ひとつ」と言うのが恥ずかしかったです。


おばあちゃんが2人

 泊まっていた宿はどうやら家族経営らしく、私たちが寝泊まりしていた宿の別館には小さなおばあちゃんが一人だけいました。見たところすべてのことをおばあちゃん一人で取り仕切っているようです。仮にこのおばあちゃんをおばあちゃんAとします。
 おばあちゃんAは私たちが宿へ帰るのを入口付近のロビーで毎日待っていてくれて、明日は朝ごはんはいりますか、といつも聞いてくれます。次の日、早めに宿を出る場合は私たちは朝ごはんを断り、ゆっくりめに出るときは朝ごはんを用意してもらうことにしていました。
 旅館で朝ごはんを食べるときは、私たちは泊まっていた別館から本館へと移動します。おばあちゃんAと一緒に移動します。本館と別館のあいだには、全然違う旅館が一軒立っていて、朝ごはんを食べるために本館への道を私、夫、おばあちゃんAで歩いてゆくと、その違う旅館の入口のところの喫煙所で、すっぴんのギャルが二人、旅館の浴衣でけだるそうにタバコを吸っていたりします。わたしは妙にこの光景が伊勢らしいような気がしてしまいます。

 本館は、有形文化財とのことで、築年数が相当古く、廊下なんて歩くと、きいきい動物が泣いてるみたいに鳴ります。おばあちゃんAに連れられて、私たちは本館のだだっ広い和室に通されました。御膳をのせる台が部屋のど真ん中にふたつちょこんと所在なさげに置いてあります。私たちが座るのを見届けるとおばあちゃんAはちょっと待っててね、とふすまを開け、部屋を出ていきました。
 そうして、次にまたふすまを開ける音がしたとき、朝食を運んできたのは戻ってきたおばあちゃんAかと思いきやおばあちゃんBだったのです。おばあちゃんBは、おばあちゃんAと酷似していましたが、よく見ると別のおばあちゃんでした。おばあちゃんAより少しだけ目つきが悪くて、背格好はほぼ一緒です。ごはんや魚がのった膳を運んできてくれたあと、しばらくたっておばあちゃんBがまた部屋に入ってきました。なんだなんだと思っていると朝食の大トリらしい伊勢海老の入った味噌汁の椀をお盆にのせています。しずしずとしたおばあちゃんBの歩みを見守っていると急に「あああ」と悲痛な声が聞こえました。どうやら椀から顔を出していた伊勢海老が沈んでしまったらしい。あまりにも申し訳なさげなおばあちゃんBの様子に動揺してしまった我々でした。

 朝食を終え、部屋を出たらおばあちゃんAがいたので、別館へ一緒に帰ろうと声をかけたのですが、聞こえなかったようでまったく気づかれません。何度も呼びかけるも、遠ざかってゆく姿をよくよく確認するとおばあちゃんBでした。
 おばあちゃんAがいない。おばあちゃんAはどこに消えたんだ。本館の古めかしい雰囲気もあってうすら寒く思いました。曇った気持ちで別館に戻ると、おばあちゃんAは普通に玄関で迎えてくれました。先に帰っていただけでした。

 あの宿にはおばあちゃんAとおばあちゃんBというおばあちゃんが二人います。気がかりだったのは、我々は結局、滞在中におばあちゃんAとBが同時に存在しているところは確認できなかった、ということです。おばあちゃんAとおばあちゃんBはおそらく別人なのでしょうが、確固たる証拠はなく、何かの理由で本当は一人なのかもしれない、という可能性はなくもありませんでした。1週間くらい滞在したものの、謎は深まるばかりで、全てを聞けるほどおばあちゃんAと仲良くもなれなかったので、これはまた、伊勢に来たら確かめたいことのひとつです。

伊勢海老のお味噌汁は伊勢海老が沈んでいても、すごくおいしかったです。


ものは言いよう

 地方都市の夜の早さを私たちはなめていて、伊勢市駅前のロータリーで途方にくれていました。タクシーが捕まらないんです。一緒にご飯を食べていた4人とも、二見浦に宿泊していたので、電車が終わった今、ここからだとタクシーしか宿に帰りつく手段はありません。

来ないね…と言いつつ、タクシー会社に電話したほうが早いかも、と片端から電話をかけ、ようやく繋がったタクシー会社に安堵の思いを吐き出して、迎車を頼み、しかし電話を切った途端、私たちの目の前に、空いてるタクシーが滑り込みます。持ち前のタイミングの悪さにうんざりしながら、迎車を頼んでいるので大丈夫です、とやり過ごしました。

 ようやく来てくれた迎車のタクシーに、なんだかんだほっとした面持ちで乗り込むと、速攻伊勢外部の人間だと見抜かれたのか、後部座席に座っている私とカネコさんに「女子旅!伊勢スイーツ!」なるパンフレットを、はい!これね!と運転手さんが渡してくれました。女子と見ればこのパンフを渡してくるのであろう運転手さんにも女子と見ればスイーツとうたってくるこのパンフにも二重にうっすら腹を立てましたが、しかし、伊勢ってたくさんあるんですね和菓子。

 そういえば私たちが泊まっている二見浦の駅の近くにも赤福餅の支店と御福餅の本店が並んでいました。
 御福餅ってなんだろう、と思ってのぞいてみたら赤福餅とほぼ同じ餅でした。隣なのにいいのかなあ、などと不思議に思っていたのですが、パンフレットにもこの二つの餅のことがのっています。ちょうどいい、知りたいです。

 写真と一緒に簡単な説明文が書いてあって、それによると、この二つの餅、形はほぼ一緒なのに、赤福餅の形は五十鈴川のせせらぎを表していて、御福餅の形は二見浦に打ち寄せる波を表現しているそうです。

 えーそんな!仕上がる形状は一緒なのに過程の表現だけ変えて意味があるんでしょうか。こんなの美術の作品をつくるときにやったら怒られるやつです。
 耐えきれずタクシーの運転手さんにいったいどういうことなのかと質問してみたところ、「まあどっちも、指2本のせてるだけやからな」ということでした。
 妙な潔さに深く納得しながらも、そう片付けられちゃった赤福餅と御福餅のやるせなさはいかほどか。真っ暗闇の中、おそらく二見浦の海岸付近を走るタクシーに乗りながら、彼らの行く末を案じました。

タクシーの運転手さんは御福餅が夏に販売している、「お福アイスマック」というこしあんのアイスキャンディーを食べて歯を折ったそうです。ほんとかな。


三好 愛(Miyoshi Ai)イラストレーター
http://www.344i.com/

【滞在期間】2020年11月21日〜11月27日

※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)