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雑文(75)「さやかもきくこも」

 きっかけはコロナ疲れだったのだけれど、以前からきくこさんとはどこかシンパシーが合うというか、きっとそれはきくこさんだってそうにちがいないと妙な勘ぐりがわたしにはありまして、せっかく宿を取って旅をするなら一人旅は寂しいですから、きくこさんもどうですか? と誘ってみました。
 おたがい独身ですから時間には都合がつきますし、それに自宅に籠ってばかりでは身体に毒ですから、わたしたちは二人旅に出ることに相成りました。
 職業がら、パソコンさえあればどこでだって仕事はできますから、どれくらい逗留するかは事前に決めずに、わたしたちは事の成り行きに任せようと合致しました。
 
「浴衣似合うね、さやかちゃん」
 座いすに着いたきくこさんが、温泉まんじゅうの袋をむきながら言います。
「きくこさんは、着替えないんですか?」
 ひと口齧ったきくこさんが苦そうな顔を見せ、開け口を折り畳んで残りを茶菓子のお皿の上に戻します。
 茶缶の蓋を開け、茶葉のティーバッグを取り出し、電気ポットの頭を押して湯を注いだ湯呑みに浸し、紐を操るように軽く混ぜると湯呑みに唇をつけおそるおそる啜ります。
 熱さに慣れるとお茶を口に含み、口の中を揉むように洗い、ためらわず飲みました。
「なんて?」
「聞こえていましたよね? わざとでしょ?」
「だからなんて?」
 わざとらしいとわたしは思いながらも、とぼけるきくこさんの調子に合わせ、もう一度たずねます。
「着替えないんですか?」
「ああ」と、初めて聞いたと言わんばかりに、きくこさんはわかりやすい考える仕草をわたしに見せつけると、ぼそりと言いました。「わたし似合わないから、いいや」
「浴衣に似合うとか似合わないとかあります?」
「現に、さやかちゃんすごく似合ってるよ。ここの仲居さんみたい」
「仲居さんって」
「いいからいいから。わたし普段から白シャツと紺ジーンズだから、こっちの方が落ち着くから気にしないで」
 と、笑ったきくこさんは、暮れなずむ窓の外の景色に目をやります。
 わたしは窓辺に近づき、思わず声を上げました。
「きれい、素敵」
 背後から、きくこさんの「うん」という肯定が続きます。「ほんと、きれい」
「よかったですね、来てよかったです。ねえ、きくこさん」
 振り返ると、きくこさんが無表情にわたしを眺めていました。
「どうしたんですか?」
 心配になって近寄ると、きくこさんは泣いていました。
 どうされたんですか? とたずねる前にわたしはすべてを悟りましたから、気がつくときくこさんを抱いていました。
 きくこさんもわたしの気持ちを察してか抱き返してきます。
 しばらく抱擁したのち、わたしたちはまた離れると、どちらから話すべきか会話がはじまりません。
 わたしが困っていると、きくこさんができるだけ明るく話題をわたしに振ります。
「この部屋、外に露天風呂あるんだって」
 きくこさんがわたしの瞳のいろを覗きます。
「それは楽しみですね」
 と、無難に答えたのですが、きくこさんがわたしの中に踏みこんできました。
「夕ご飯までまだ時間があるけど」きくこさんはそこで言葉を切り、喉を鳴らすと続く言葉を発しました。「入らない?」
 わたしたちに返事は不要だったのでしょう。きくこさんに腕を掴まれるとわたしは、抗うことなく受け入れ、ふたりだけの世界へ旅立つのでした。

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