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72 肯定してくれるまで待つ心

昨日、作詞作曲してる模様を配信していたのだけど、これは前回の配信から始まったことで、前回は割とサクサクと進んでよかったのだけど、昨日は取り掛かったのがサビの部分というのもあって、あまり進みが良くなくて、それが一晩明けた今朝まで少し気になっていた。

そもそも作詞作曲は時間がかかるものなので、配信のわずか30分、1時間の間にできるものじゃないことはわかっているし、そんなに簡単にできてしまったら逆に興醒めだ。……そうわかっていても、なんとなく気がかりになってしまうというか、小さなしこりが残っていることに過敏になってしまう心がある。作詞作曲の出来栄えのことではなくて、配信を見に来てくれた人に対して、つまらない配信をしたかなと、そういう気がかり。

今朝は早く起きて、シャワーを浴びながら、外に出るから久しぶりにスタバにでも行って気持ちよく過ごそうと思った。最寄りの駅そばのスタバでソイラテを買って駅のホームのベンチに座ってほくほく飲んでいた。濃厚な豆乳の舌触りとほのかに香る甘い匂い(ハチミツだろうか)。

気になっていることも時間が経てばそのうち忘れてしまうけど、暇をしていると思い出してしまって忘れられない。大したことではないことが段々大したことになってきてしまう。だからもう昨日のことは考えないようにしたいのだけど、今度はその「気にしてしまう気持ち」自体のことを考えたくなって自分の気持ちを眺め始めた。

何かを待っている気がする。僕の心は何を待っている? そう自分に問い掛けると、誰かに肯定されたい、理解して欲しいと心の声が聞こえてくる。そうか、自分が自分の状況を理解しても、それを人にも認めてもらいたいという気持ちがあるんだ。自分の解釈に「本当にそうなのか」と疑ってしまう気持ちがあるからか、誰かが肯定してくれるまで待つ心がある。

"人間は社会的な動物"って言ったのはプラトンだっけ、ソクラテスだっけ、はたまた別の人だったか。どうも自分ひとりの心身では満ちない時がある。誰かが埋めてくれる、それをひたすら待ってしまうような気持ち。こういうのはお喋りが得意な人とか、ひとりでいるのが苦手な人とかには無縁な感情なのだろうか。

夜になって、続きとして上のひと段落を書き始めたのだけど、朝感じていたことがなんだったのか、やっぱり些細なこと過ぎて忘れてしまった。良かったのだけど、また同じようなことってきっと起こるから、その時のためにここに文章を残しておくとする。

そういえばスタバのクーポンをもらったから、帰りはそれでまたソイラテを飲んで帰ろうかな。朝夕、ソイラテに包まれる。

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