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金本位制はわずか6年しか続かなかった ゴールド111

イギリスは、金の急激な流出と外国の所有するポンド残高の大量の引き出しに苦しみ始めていた。

1931年のイギリスの物価は、金本位制に復帰した1925年の水準からすでに38%も下落していた。そして、貿易収支の状況もひどく悪化 -輸入が輸出を上回り、その差が絶えず拡大- していた。

フランスとの対立

ポンドの先行きに不安を抱くフランスの金融業者はロンドンへの融資の返済を要求していた。

1931年7月、イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンはフランス銀行に融資をしてくれるよう依頼するという尋常でない決定を下した。フランスはイギリス政府が保証するならば協力をするつもりだったが、イギリス政府はその保障を拒否し、この融資に関する交渉は失敗に終わった。そして、ポンドは再び下落し始めた。

そして、イギリスの金準備も国外に流出し続けた。


ジョージ国王も手当削減を申し出た

1931年8月、イギリスでは労働者の4人に1人が失業していた。その1年前は6人に1人だった。さらに、物価と賃金は下がり続けていた。

イギリスはフランスとアメリカの銀行家から融資を受けようとしたが、彼らはイギリスへの信用貸しを増やすことを拒否した。その拒否の理由は、イギリスが失業手当の削減をしなかったからだ。

こうしたなか、ジョージ国王は三党連立の挙国一致内閣を組織するよう促した。9月には、国王は国家支出削減への協力として手当の10%削減を申し出た。

イギリスでは、生活を切り詰めて安定に向かうことが、浪費して混乱に向かうよりはるかに良いという考えが主流派となった。


増税、政府支出削減、金利上昇

倹約によってのみ世界に蔓延する恐ろしい経済の病気を治療できるという主流派の考えに、反対の声を上げたのはケインズただ一人だった。しかし、ケインズの声は主流派には何の影響も及ぼさなかった。

政府は、国民に犠牲を強いてもポンドを守るべきだと確信していた。そして、外国人にもっとポンドを保有してもらうために、金利を大幅に引き上げた。

増税、政府支出削減、金利上昇の組み合わせは最悪と言わざる得なかった。イギリスの経済状況はさらに悪化し、失業率はいっそう上昇した。税収はもちろん減少した。


金本位制の放棄

1931年9月21日、ついに法案により金本位制は放棄された。イングランド銀行は、要求に応じて金地金を供給する義務を免除された。1925年4月に「1ポンドは4.86ドル」として金本位制に復帰してから、わずか6年しかその義務をイングランド銀行は果たせなかったこととなる。

「エコノミスト」は1ポンドが4.86ドルであるというノーマンの確信の誤りを認めようとせず、アメリカがにわか契機に浮かれて浪費したことで不況に陥ったとしてアメリカにその原因を転嫁した。


しかし、ケインズは「エコノミスト」よりもはるかに的を得た見解を発表した。

「金の足枷から解放されたことを喜ばないイギリス人はいない。われわれはついに理にかなったことをする自由を手に入れたと感じている。私は世界の貨幣の歴史に新たなページが開かれると信じる。私は、それによって乗り越えられないように思える障壁が破壊されることを希望する」


ゴールド 金と人間の文明史 ピーター・バーンスタイン

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