「美女と野獣」 原作とのキャラクター比較

私はディズニーの「美女と野獣」という作品が大好きだ。
どのくらい好きかというと、もう、本当に大好きだ。
文献研究をする前に、どれくらい好きか最初に述べておこうと思う。

まず、私はディズニープリンセスの中でベルが一番好きだ。
何がいいって、ドレスが黄色なところである。
女子が好きな色を問われた時の答えの正解はいつだって「ピンク」か「水色」の二択だ。
オーロラ姫のドレスの色は妖精たちが「ピンク」か「水色」かでもめて、最終的にどちらも混ざってしまう、という描写があるが、もう本当にその通り。
女子の選択肢にはその二択しか存在しない。
しかしベルは黄色だ。

女性社会において「人と同じである」ことの重要性は幼稚園の頃から身をもって体感し、そして同時に「女の子らしくある」ことの同調圧力もこの時期にはすでに始まっている。

そんな女の子たちに黄色という選択肢を与えたことを、私は黄色に代わって感謝したい。

ベルに「黄色のドレスを着せたい」と言ったクリエイターは誰だろうか。
その人に惜しみない拍手を送る。
でも多分本当のところ、野獣が茶色で、目の色が青、ということは服は青。
ディズニーの色の法則的に赤と緑は悪者の色で使えないから、
通常プリンセスに着せている青いドレスをベルに着せちゃうと
どちらも青くなっちゃうから、反対色の黄色にしようぜってことで、黄色になった、とかそれくらいの理由だと思う。
まあ、それでもいい。ベルと野獣のカラーバランスは素晴らしい。

そして音楽が好きだ。
一番好きなのは「朝の風景」と「愛の芽生え」
……一番なのに2つ挙げてしまった。

「朝の風景」は声がかかればいつでもあの村の住人になれる用意はできている。
因みに「ここでベルが読んでる本は実は『美女と野獣』なのだ」という話があるが、私は違うと思う。
まあ……それを論破できるほどの根拠は無いが、なんとなく、そんな入れ子構造みたいな面倒なこと、ディズニーは初っ端にぶち込んでこないだろ、と思うからである。
とは言っても、何の本を読んでいるかは私にとってそれほど重要ではない。
周りから「変わり者」だと言われる彼女には本の世界がある、ということが重要なのである。

「愛の芽生え」は小鳥にえさをやるシーンとスープを飲むところが好きだ。
小鳥にえさをあげる野獣の大きな手とベルのか細い手の比較で私は恋に落ちる。
「ああ、この人は男の人なのだ」と、なぜかあの手を見ていつも思う。
私は手フェチなのかもしれない。
そしてその後、スプーンが上手く使えない野獣に合わせてベルがスープ皿からスープを飲む。
その思いやりが愛しくて、そしてあの二人が楽しそうで、早くくっついてしまえ、と思う。

あとはどこだろう。
細かいところかな。

最初のステンドグラスがめちゃキレイ。
朝の風景でヒツジがページを食べちゃうところが好き。
ガストンにいちいち溜息をつく、三色の女の子たちが好き。
友達とランドのハロウィンに行ったら一色ずつやろうね、と決めている。
野獣はあんなボロボロの部屋で毎日寝ているんだろうか。寒そうだな、と思う。
野獣がベルを図書館へ連れていくところが好き。早くくっついてしまえ、と思う。
最後、風になびくベルの髪が好き。

以上が、美女と野獣への、私の愛である。
お付き合いいただきありがとうございました。

さて。
もう十分愛は語ったので、
ここから先は原作との比較をしながらちゃんと書きたい。


【はじめに】
「美女と野獣」の原作が書かれたのは1740年。
日本で言うと、暴れん坊将軍・徳川吉宗が世を治めていた頃である。

それから約250年後の1991年、ディズニーによってアニメ映画化された。
ディズニールネサンス期真っただ中の作品だ。

原作との相違点は多々あるが、今回はどちらにも登場するキャラクターの設定に主軸を置いて考える。

①ベル
ベルの名前は英語で「Belle」
エリザベスを「ベス」と呼ぶように、アラベルとか、イザベラとかの愛称として使われるのでそれかと思っていたが、
美女と野獣の原題「LE BELLE ET LA BETE」(ラ・ベルとラ・ベート=美し姫と怪獣)のベルからきていたのだろう。
ただどちらもフルネームは明記されていない。

ベルのキャラクター設定で注目すべきは「変わり者」ということの描き方かと思う。

原作では、ベルには2人の姉と3人の兄がいる。
この兄姉たちが、ディズニー版「美女と野獣」でいうところの村の人間の役割全てを担っている。
兄たちに関してはほぼ空気なので、今回は言及しない。
この姉二人というのが、シンデレラの姉二人とほぼ同じ、
目立ちたがりで、お金大好き、いいところに嫁いで楽したいタイプの姉である。
その二人から見ると、家にこもって母を亡くした父の面倒を見たいなんて、
「ベルは変わっている」のである。

ディズニー版ではどうだろうか。
一人娘で父のことを愛しているが、かいがいしく世話を焼く様子は描かれない。
その代わりに、セクシーなガストンに見向きもせず、本ばかり読んでいる、ということで「変わっている」感を出している。
この頃のディズニーは人種差別と女性差別でめちゃくちゃ叩かれていた時代でもあるので、ベルがかなりフェミニスト寄りのキャラクターで描かれている。そこで黄色のドレスなのである。

②野獣

原作を読んでみると、野獣が一番キャラクターが違うように感じる。
違う、というか追加されている。

魔法をかけられ野獣に姿を変えられてしまった王子様。
ディズニー版では横柄な王子様がおしおき的な意味合いで魔法をかけられ、
心まで荒んでしまっていたが、原作では最初から最後までずっと優しい。

父親の身代わりになるため城へやってきたベルに「来てくれてありがとう」ときちんと礼を言い、丁寧に夕食へ誘い、見た目にビビられながらも、楽しくお食事をする。
毎晩「結婚してくれ」と迫るも、毎晩フラれ続ける。
しかしなんやかんやで仲を深めていく二人。
ある日、ベルが病気の父を心配し村へ帰りたいと言いだしたので、ベルを村へ帰してやる。
しかし「もしこのまま君が帰ってこなかったら君を失った悲しみで死んでしまうかもしれない」と言って送り出す。
そして期限を過ぎてもベルが帰ってこないと、飢え死にした方がマシだと考え、ベルが帰ってきた時には外で倒れている。

……なんとも、ナヨナヨしている。
かなりナイーブなところは箱入り息子な王子様かもしれない。
しかし絶対にベルに対して横柄な態度は取らないし、ベルにずっと優しい。
心まで野獣にはなっていないところが、原作とディズニー版の違いだ。

ディズニー版では、「メンタルが荒み散らしている野獣」という設定にしたことで、最初はお互いつんけんしていたが、次第に野獣の心が解けていき、ベルも心を開いていく様子が丁寧に描かれている、と思う。
(オオカミに襲われそうになるのを助けに行くシーン、本当好き)
そうして心が解けていき、あれである、ディズニーでいうところの「真実の愛」を知るのである。

こうしてみるとベルが主人公だが成長しているのは野獣のように思える。
美女と野獣においての主人公、真のヒロインは野獣の方かもしれない。

③魔女

王子様を野獣に変えた「魔女」
この人は冒頭に説明程度にしか出てこないが、結構重要だ。
だってこの人が魔法をかけなければ、この物語は始まらないわけだから。

さて、原作では魔女に関しての記載は「あるいじわるな妖女が、私を苦しめるため、呪ったのだ」と最後の最後、野獣の魔法が解けた後でネタばらしがあるのみに留まる。

ディズニー版では物語冒頭で、
醜い老婆が甘やかされた育った横暴な王子(野獣)の城を訪ね、
一晩泊めて欲しいと願うものの、その醜い姿を見て王子が拒否したため、
老婆は美しい魔女へと姿を変え、王子を野獣へ変えてしまう、
そしてこのバラの花びらが落ちるまでに愛し愛されなければ、永遠に野獣の姿のままである
と呪いをかけるところから始まる。

ディズニーがこの設定を付け加えたせいで、
実写版ではさらにこの魔女に対して「なんで王子に魔法かけたん?」っていう説明を付け加えなければならなくなったため、物語の要所要所に彼女を登場させなければならなくなった。(私は実写版でのこの説明は蛇足だと思っている)

なぜなら、この魔女の訪問は要するに昔話における「抜き打ちテスト」であるからだ。

昔話であるでしょ、こういうやつ。
「鶴の恩返し」なんてほぼ「美女と野獣」の魔女泊めてやったバージョンじゃん。

外国において、この手の抜き打ちテストを行うのは大抵魔女であり、テストに失敗すると悪いことが起きる。
日本では神、もしくは神の使いが抜き打ちテストを行い、良いことをすると何かしら返ってくる。
これが八百万の神々の国、ニッポン。
そしてキリスト教の国、フランスなのである。

だから「なぜ魔女は魔法をかけたのか」など理由付けをすることはナンセンスである。
神の抜き打ちテストに理由などない。
そこに理由を考えるのは、童話を楽しむ素養が無い。

だから私としては「なぜ?」と考えずに「そういうもん」として物語を楽しんでほしい。

④ベルの父親とバラ

ベルの父親の職業はディズニー版では「発明家」であるが
原作では「商人」であり、一家はそこそこ裕福な暮らしをしている。
妻(ベルの母親)がいないことは一緒だ。

ディズニー版では発明なんていう変わった職業をしている父親を信じているベルが変わっていると、ベルを変人扱いするのではなく、父親に変わってる要素を担わせている。
そのおかげでベルがプレーンなキャラクターになり、女の子たちは感情移入しやすくなっているので、ディズニー版の父親の役割はそこそこ大きい。

物語において父親の役割はもう一つ。
バラに触れ、野獣を激怒させ、人質に取られ、ベルと引き換えになることである。
これに関しては原作もディズニー版もほぼ同じである。
しかしバラの扱いが違う。

原作では先に述べたとおり、ベルの他に5人の兄姉がおり、父親はそこそこ甘やかしている。
ある日、父親が商売へ出かけることになり、兄姉にお土産は何がいいか問う。
それぞれがドレスやら何やら欲しいものをあげる中で
何も言わないのも感じが悪いなと思ったベルが「バラが一本欲しい」と言うのである。

そう、バラである。

それを帰り道に思い出した父親が泊めてもらっている城のバラを摘んだところ野獣が激怒するのである。

そう、あのバラである。

ディズニー版では魔女が一輪置いていき、呪いのタイムリミットとして使われるバラは、実は原作ではベルがねだったものであった。
あの時ベルがバラをねだらなければ、野獣とベルは出会っていない。
そのアイテムとしてバラを使うところが、なんともシャレオツだ。
さすがバラの国、フランス。

なぜバラか、というのは私がフランス文化に詳しくないため分からないが、日本の桜と同じような位置づけなのではないかと思う。
バラは美しい見た目とその香りから人々を惑わすものとしてキリスト教からタブー視されていた過去がある。
そんなバラの存在は、野獣に魔法をかけたあの美しい魔女とどこか重なる気がする。 
花びらが落ちていく様子を見るたびに、野獣はあの老婆のみすぼらしさと魔女の美しさを思い出すのだろう。

【まとめ】

今回は「美女と野獣」の原作、そしてディズニー版に登場するキャラクターを比較した。 
原作と違うのは
・ディズニーが女性差別の批判を受けて作ったフェミ寄りキャラクターのベル
・野獣の成長物語
・野獣の成長物語のための理由付けの魔女
・バラの神秘性増し増し
である。

いつかバラに関して、もう少し掘り下げたいな。
歴史とフランス文化を学ぼう。
ベルに関してはディズニーとフェミニズムの戦いに関してもう少しきちんと調べてから書いていきたい。
今夜の地上波放送が楽しみだ。
分析がお好きな方、ディズニーがお好きな方がいれば、ぜひ見終わった後に文献研究結果を語り合いましょう。

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