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コミュ障じゃない人なんていません!〜聲の形 on the spectrum

丸一週間連日35℃超え。ロンドンも10年以上住んでますが、こんな熱波は記憶に無いです。耐性の無い北欧人は溶けかかってます。コロナ退避のステイホーム組まで殺しにかかってやがる。野生化したインコも飛び回ってるし、すっかりトロピカル。これで近所にビーチがあればなあ。

さてそんなステイホームでNetflixも大概見尽くしちゃった。そんな僕に追撃レコメンドで上がって来た作品「Love on the Spectrum」と「聲の形」。それを立て続けに見たら、「なんだ、結局僕らみんなDisableなんじゃん」と納得した話。

まずは両作品紹介&所感から。

「Love on the Spectrum」

自閉症の人たちが恋人を探すドキュメンタリー作品です。

「自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder: ASD)」は、対人関係が苦手・強いこだわりといった特徴をもつ発達障害の一つで、症状が個人ごとに千差万別なのでスペクトラムと呼ばれます。

好き嫌いが超絶明確で絶対的。であるが故に自己表現や反応は直接的で断定的。リミットを超えると即完全遮断。しかしそれは忖度や妥協、駆け引きや騙し合いなどの社会的ポリティカルゲームから無縁な、ピュアでイノセントな存在であるとも言えます。汚れているのはむしろ世界の方なの!(ナウシカ風)

汚れた世界で純粋な生物は生き辛い。しかしそんな自閉症の人達だって、当然ながら人生をシェアするパートナーや家族が欲しい。番組では様々なタイプの自閉症の人々が登場、それぞれの挑戦を追いかけます。しかしまあみんなキャラが立ってて濃ゆい。彼らの一途さともどかしさにキュンキュンきちゃいます。

「聲の形」

社会現象規模でメガヒットした「君の名は」の背後で、賛否を巻き起こした話題のアニメです。

噂は聞いてはいたものの未チェックだったので観賞。脚本も作画もハイクオリティの良作として楽しめましたが、作品として好きかと聞かれると、絵柄やエモ演出とか含めて個人的には苦手な部類です。まあそれは単に好みの問題ですし、一度は見る価値のある作品だと思います。

賛否があったのは、聴覚障害やいじめ問題を扱っていたからのようです。まあ確かに不愉快な表現もなくは無いし、脊髄反射系の人達が炎上させるのも頷けますが、しかし実際はそれらは構成上の素材に過ぎず、本質的には「全登場人物コミュ障こじらせ祭り」みたいな映画でした。

話自体の理解はできるんですが、僕自身のケースとしての共感は全くできませんでした。いちいち全員がナイーブでセンシティブ過ぎるというか、こういう自尊心肥大・情緒不安のゴタゴタは僕は中学生くらいで卒業してたと思うんですが、僕がサイコパスなんでしょうか…。ちなみに僕の世代的には「ニュータイプというやつか!」とか「ATフィールドは心の壁!」とか「攻性防壁!」とか流行ってたもんですが。アドラーじゃありませんが、いつの世も「繋がりたいのに繋がれない」自意識こじらせ問題は知的社会性生物たる人間の業であり普遍なのであります。

コミュ障度が高いのはどっちか

さて、これらを立て続けに見たら、どっちがどっちだったかわからなくなりました

「Love on the spectrum」における症状、自己を曲げられない、環境に合わせられない、共感性が低い、想像力に乏しい。まさにいわゆるアスペというやつですが、その思考は極めてシンプルで悪意もありません。僕の周りには(僕自身を含め)アニメ・ゲームオタクのコミュ障ギークも多いので、どこか親近感を感じると同時に、その境界はどこにあるのか考えさせられます。

「聲の形」における症状、主張しない、やたら同調しようとする、空気読み過ぎ、聞かずに憶測、逃避して引き籠る、怯えると激しく攻撃的、すぐ死にたがる(攻撃性が自身に向く)。自己過剰防衛型とでもいうのか、全体的に思いつめ過ぎ、典型的・日本人的スペクトラム症状に思えました。

どちらも両極端な、しかし同じ自閉スペクトラムの中の一例であり、コミュ障としてのやっかい度合いで言えば大差ありません。それらが集まって相乗的にこんがらがって、ドラマを生んでいく訳です。

Disableは個性である

すっかり一般定着したコミュ障って単語。ポリコレ的には〈「障害者」というのは不適切なので「障がい者」と呼びましょう〉みたいなのありますが、英語ではDisableとかDisorderとか言います。「Dis-Ability」で「その能力が-無い」、「Dis-Order」で「秩序が-無い」となって「不能」や「不調」といった意味合いですね。

僕は英語の表現の方がなんか好きです。普通の独立した一個人、但し一部の事が出来ないだけ、というフィールが良いです。リスペクトも感じられるし、健常者/障がい者という分断感も少ない気がします。誰だってDisableのひとつやふたつ持っているものだし、そんな様々なDisableも単なる個性の一つに過ぎないとも言える訳です。

例えばどうしても納豆が食べられない人は納豆Disableと言えます。そういうキャラは普通にいっぱいいます(まあ納豆がコミュ力に影響するケースは稀ですが)。僕が海外出たてで英語も全然ダメだった頃、Disableとして生きる感覚がちょっとわかりました。自分は知識も経験も思考力もある成人なのに、電話対応さえまともにできない。そこらの小学生にだってできる事が自分ひとりでできない。文化Disableにして言語Disableの完全なる大コミュ障でした。

でもだからって全部シャットダウンして心を閉ざしても欲しいものは得られません。人は他者と関わらずには生きられないし、そのためにはコミュニケーションが必要です。まず他者を肯定しなければコミュニケーションは成立せず、成立しなければ他者からの肯定も得られないため自己肯定もできない。内部情報だけで対処できる事など限られているので、勇気を出して自閉モードを解除して外部情報にアクセスしていくしかありません。

まあ万能完璧な人間がいないという事は、つまりこの世界には欠陥人間しかいないという事で、つまり健常者などというのは幻想に過ぎない訳です。程度の問題?じゃあその「程度」の基準は何なんでしょうか。誰かの助けが無いと生きられないのも結局みんな同じです。欠陥人間同士お互い様です。

幻想を打破する

そもそもコミュニケーションというのは単なるキャッチボールです。角度や速度を調整しつつ、投げて受ける。それだけ。やってる内に段々お互いの事がわかってくる。的を少々外したところで「ごめーん」つって再調整するだけです。「ボール投げるのが下手過ぎて挙句ボール隠しちゃう」とか「相手のボールが豪直球火の玉ストレート過ぎてもう死にたい」とか、変に難しく捉え過ぎ、無駄に複雑にしがちなのが僕たちコミュ障です。

往々にして「これはこうあるべき」「これが正しい」とか考え出した瞬間から自意識の苦悩が始まります。正しさという幻想に引っ張られて、多様な個性の差異を否定したり拒絶したり比較したり。誰も得しない無駄な作業にエネルギーを大量消費してしまいます。

更に言えば「傷つくのが怖い」も幻想です。それは単なる自尊心であり、自分自身の理想と現実のギャップに対して生じる落胆に過ぎないからです。つまり全部自意識内の事で、他者の行動は二次的要因・トリガーでしかないという事です。となれば実際は傷ついてなんていないし、怖くもないし、踏み出す勇気も必要ありません。幻術破りの秘訣は「気の持ちよう」ただそれだけでこじらせ問題全解決です(渾身の丸投げ)。

どんなDisableだってコミュ障の一要因になり得ますが、そういうのもひとつの個性・キャラクター・ダイバーシティとして、そういうもんだと飲み込んでしまえば、コミュニケーションは大分楽になるはずです。

僕の好きなパフォーマー/アーティストでYviy Oddlyという人がいますが、彼の決め台詞が「Odd bless y’all (みんな変であれ)」というものです。「God bless you (皆に神の祝福を)」をもじったものですが、自分の個性を誇れ、他者の個性をリスペクトしろという事です。そうすれば幻想に惑わされる事なく、怯えずブレずにコミュニケーションに立ち向かえます。

さてあなたは何Disableですか?


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いつの世も、アーティストという職業はファンやパトロンのサポートがなければ食っていけない茨道〜✨