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【連載小説】「好きが言えない」#6 失恋

 自転車のかごに祐輔の水筒を入れたまま、私はぼんやりと帰宅する。でこぼこ道を通るたび、かごの中の水筒ががたがたと震えた。
 この水筒をどうやって返そう? 同じマンションに住んでいるのだから、こっそり玄関先に置いてしまおうか。いや、そういうのは祐輔が嫌がるだろう。
 返すなら手渡し。場所は、学校? これもダメだ。ちゃんと仲直りできていない状況で「はい、昨日はありがとう」と言える自信がない。
 とにかく、マンションに着いたらシャワーを浴びてリフレッシュしよう。シャワー中にいい案が下りてくるかもしれない。
 マンションの駐輪場に自転車を停め、これ以上汗をかかないためにエレベーターで5階に向かう。バッグから自宅の鍵を取り出しながら廊下を歩いていると、部屋の前で誰かがしゃがみこんでいるのに気付いた。
「……奈々ちゃん?」
 声を掛けると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「詩乃ぉ……!」
 姉は顔をくしゃくしゃにしてしがみついてきた。
「ど、どうしたのよ? とにかく、中に入ろう。ひどい顔してるよ」
 私に会うまでにも相当泣いていたのだろう。アイラインやアイシャドウが落ち、黒い涙となって頬を伝った跡が残っていた。
 部屋の中は蒸し暑いので、私たちはベランダに出た。5階なら、外に出ても誰かにひどい顔を見られることはない。
 太陽が、眼下を走る電車をオレンジ色に染めている。生ぬるい風が、汗でべとつく私と、涙にぬれた姉の顔をなでていった。
「ただ見てほしかった。それだけなのに……」
 姉はぽつぽつと語りはじめた。
「区の図書館で知り合った4つ年上の彼と、夏前から付き合い始めたの。
 私、彼に振り向いてほしくて必死におしゃれして、知的な彼の話を理解するために必死に本を読んで勉強して、告白して……。
 彼は美しいものと、美しい言葉が好きな人。そんな彼好みの女になりたかったの。平安貴族のような、白くて透き通る肌を目指し、源氏物語に出てくるような、優美な言葉遣いを心掛けた。彼だって、すごく喜んでくれていたのよ。なのに、昨日になって突然……」
 再び、姉の目から大粒の涙がぼろぼろと落ちる。
 私は恐る恐る尋ねる。
「……なんて言われたの?」
「……君は君に恋してる。そして、僕の愛するものを愛している。けれど僕は、僕自身を愛してほしかったって……」
「……別れの、言葉なの?」
「そう。それが別れの言葉。美しくも残酷な。……私、どうすればよかったの? 詩乃、あんたにはわかる?」
「そういわれても……」
 妹の、しかも野球に明け暮れていた私にできるアドバイスなどない。
 姉はしばらく押し黙っていた。眼下の駅に電車が停まり、再び動き出して見えなくなったころ、
「……あっ、もしかして」
 そう言って、ほぅっと細く息を吐きだした。
「鏡の前で1時間も2時間も、お化粧したり着ていく服を選んだり……。けれどそれが、彼のためじゃなくて私自身の美のためだったとしたら……? 
 確かに私は、鏡の前の私しか見ていなかった。その間、彼のことを考えてすらいなかった。……彼が言いたかったのは、そういうことなのかしら」
「相手を喜ばせるためにしていたことが、実は自分のためだったってこと?」
「少なくとも、彼にとっては。……ああ、恋愛ってなんだろう? どうやってするんだろう? なんだかわからなくなっちゃった。……ごめんね。私の美を演出するために『おしゃれごっこ』につき合わせちゃって」
 こんなときでも姉は私への気遣いを忘れない。自分が一番深く傷ついているというのに。
「実をいうと、詩乃と買い物に行けてすごく楽しかったんだ。彼との関係が終わっていなければ、定期的に誘おうと思ってた」
「……誘ってよ。また、恋したくなったら」
「ん?」
「私も、楽しかったよ。もちろん、まだまだ修行が必要だけど。買い物の仕方も、お化粧の仕方も」
「そう……。なら、いつかまた。……やっぱり年の近い姉妹っていいわね。ひどい顔してても、こうやって悩みを打ち明けられる」
 微笑んだその顔にはまだ黒い涙のあとが残っている。確かに、友達にも恋愛相談はできるだろうが、この顔は見せられない。
「彼氏さんもきっと、こういう顔を見せてほしかったんじゃないかな」
 ふと、そんな言葉が飛び出した。姉は、はっとした後で「そうかもしれないね」と言った。
「本当は詩乃のこと、羨ましいんだ」
「えっ?」
「夢中になれる何かがある人って、やっぱりキラキラしてるもの。私には、それがない。ただなんとなく『かわいい』に憧れて、欲しがって生きてきただけ。……もう一年もしたら二十歳。そろそろ真面目に探さなきゃ。私が本当に夢中になれるものを」
「夢中になれるものって……。私はもう野球部を辞めてる」
「部活は辞めたかもしれない。でも、詩乃は野球のこと、捨てきれてない。顔に書いてある」
「えっ」
 野上にも言われた。私が野球を忘れたいのは嘘だって。
 姉は続ける。
「詩乃とはずっと女子トークしたいって思ってたから、ついお化粧を施したり、お買い物に誘ったりしたけど、結局私も無理強いしたのよね。お父さんが、私たちの意見も聞かずに野球をさせたように。
 ほんとにごめんね、詩乃。こんなお姉ちゃんでごめんね」
「奈々ちゃん。謝らないでよ。全然、悪くなんかないんだから」
 自分を責め始めた姉の言葉を否定する。こんな時、なんて言ったらいいんだろう。私は少ない語彙を頭の中で必死にこねくり回す。
「……奈々ちゃんだって、夢中になれるもの、ちゃんと持ってると思うよ」
「えっ?」
「私、お化粧なんてしたことなかったけど、奈々ちゃんにメイクしてもらったり、アドバイスもらったりしたおかげで新しい世界を知ることができたの。野球しか知らなかったこの私を、女の世界に引き込んでくれた。それってすごいことだと私は思うよ。
 メイクアップアーティストとしての奈々ちゃんの顔は、とってもキラキラしてたよ。だから今学んでいることはきっと、奈々ちゃんが夢中になれることだって、私は信じる」
「詩乃……。ありがとう。……そうか。私にも夢中になれるものがあったんだ、ちゃんと」
 姉は落ち着いたのか、穏やかな表情で言い、小さくうなずいた。
「よぉし。なんだか頑張れそうな気がしてきた!」
 姉はくるりと向きを変え、部屋に入る。
「話を聞いてくれてありがとう。顔を洗ったら私、帰るわ」
「うん。顔だけは洗ったほうがいいね」
「お母さんとお父さんには、ここへ来たことは内緒ね」
「もちろん」
 これは、小さいころからの決まり事。親に言えないことはみな、二人だけの秘密なのだ。
 洗顔を終え、さっぱりした姉のすっぴんをまじまじと見た。よく見てみると、眉毛だけは短いけれど、化粧をしなくてもきれいな顔をしていた。
 しかし姉は化粧道具を並べ始める。
「お化粧、し直して帰るの?」
「当たり前じゃない。まだ日差しもあるし、日焼けしちゃったら大変だもの」
「それ、私に向かって言う?」
 私は日焼けした腕を見せつけた。
「あはは、ごめんごめん。……そうね、今の発言も自分中心よね。私ってほんっとにお馬鹿さん。せっかくさっぱりしたっていうのに、またこってり化粧をして帰るの?」
 姉は広げた化粧道具を再びバッグにしまった。
「もういい。誰も私の顔なんて気にかけてないんだわ。今日はこのまま帰って寝ちゃおう!」
 姉は荷物をまとめ、靴を履いた。そしてドアノブに手を掛けながらぽつりと言う。
「……本音で語り合えるって、やっぱりいいね。次に恋人ができたら、その人とはそういう関係になりたいな」
「本音で語り合える関係、か」
「……また、会おうね、詩乃。今度はちゃんと、特大ハムサンド、ごちそうするから」
 姉の顔は、すっぴんがゆえに若々しく見えた。化粧をした顔はもちろん素敵だけれど、この、素の笑顔が私は好きだった。
「今度はさ、温泉でも行こうよ。すっぴんデート」
「ウフフ。考えておくわ。それじゃ、また」
 姉は再び笑い、出て行った。重い玄関扉が閉まると、静寂が訪れた。
 音を失った室内で、私の脳は、今しがた聞いた姉の言葉を何度も繰り返しはじめる。

  ――部活は辞めたかもしれない。でも詩乃は野球のこと、捨てきれてない。顔に書いてある。
  ――本音で語り合えるって、やっぱりいいね。次に恋人ができたらそういう関係になりたいな。
 
 美しく着飾った姉に憧れ、私もそうなりたいと望んだ。けれど、化粧をし、美しくなればなるほど心が苦しくなるのはなぜだろうか。その答えを、姉が示してくれた。
 私は自信を失っていたのだ。女の自分が野球を続けていくことに。その弱さを隠すために、化粧という、表面を美しく覆う方法を選んだ。けれど、仮面をつけて誤魔化すことさえ認められない自分がいて心がぐちゃぐちゃになっているのだ。
 ――本当のところ、私はどうしたいの? やっぱり、野球を続けたいの?
 自分自身に問いかける。「臆病な私」はすぐに答えを出してはくれない。
 ダイニングテーブルに置かれたままの大きな水筒が目に入る。
 ――そうだ。このままでは終われない。自分の気持ちと向き合って、ちゃんと答えを出さなくちゃ。
 明日。明日から、始めよう。祐輔にちゃんとバトンを渡すために。



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